三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

賈詡(かく) 字:文和(147~223)その4

さて、今回紹介するのは賈詡の紹介、4回目じゃな。そろそろ終わりが見えてきたかのう。今回ではまだ終わらんかもしれんが次では確実に終わるじゃろうな。

 

さて、賈詡の紹介、4回目じゃな。全然3回では終われんかったのう。

どうも、張郃だ。まあやはり賈詡殿だな。語ることは幾らでもある、と言うことだな。  

でももう曹操さんのところまで来ているからもう少しではありませんか。

そうじゃな、実は曹操の下に来てからはそこまで目立つわけではないからのう。 

曹操陣営にはいろんな武将もいるからな。逆に言うと後からの参入でこれだけ存在感を示せる人物もそうはいない、と言うことだな。 

それは張郃殿も同じですな。よし、それでは早速行くぞい

よろしくお願いします。

人物紹介

赤壁時の提言

曹操荊州を打ち破った時のこと、曹操は長江の流れに沿って東へ降ろうとしたんじゃ。それに対して賈詡は以下のように意見を言うんじゃよ。

「明公(曹操)は先に袁氏を撃破なされ、今漢水の南城を手中に収められまして、威名は遠方まで輝き渡り、軍事力は既に強大になっておられます。

もしも旧国楚の豊かさを利用しつつ、軍吏・兵士をねぎらい、民衆を慰撫なされて土地に落ち着かせ、楽しんで仕事をするように仕向けられたならば軍兵を煩わせるまでもなく、江南は頭を下げて帰服するでありましょう。」

非情に適切な進言じゃった、と思うんじゃが、これにまたいちゃもんを付けたのが裴松之なんじゃな。どうやら彼は賈詡を何とか否定したくてしょうがないようなんじゃ。

裴松之が言うには、この発言は時宜を得たものではない。まだ関中には馬超達がいて、狼の如く中原を振り返り狙っており、魏の武帝がのんびりと荊州に居座り、威光によって呉地方を手なずけるだけの余裕がなかったのは明白であった、とまず言っているんじゃ。 

到底承認できないな。馬超韓遂曹操殿が漢中討伐のために西に赴いたことで、不安になって初めて反乱を起こしただけであり、それまではむしろ魏の協力者で、しかも鍾繇殿がそちら方面の監督をきっちりやっている。

何よりこの時期馬騰韓遂の子弟等が中央の官吏になっているのに、何故彼らの謀反を気にして荊州の統治ができない、等と言う話になるのか?

もう一つ理由もあって、荊州の住民は劉備の雄姿を慕い、孫権の武略を畏れてきた。実際魏の諸将が防御しきれるものではない。実際、江陵を守備した際、曹仁はたちまちの内に敗れたのである、と言ってるんじゃ。

こちらも論外だな。そもそも江陵の攻防は一年以上に渡って繰り広げられており、たちまちの内に敗北したわけではない。しかもそれは赤壁の敗戦で荊州軍を失い、魏の勢いが落ちた状況での話だ。

赤壁の敗戦がなければそもそも劉備は勢力を維持することもできず、孫呉もおいそれと手を出せなかったのは黄祖の件を見れば明らかではないか。  

たしかに黄祖一人を倒すのに、結局孫呉は父孫堅の時代から20年近く費やしていますからのう。そう考えるとこの辺りの意見はちょっと受け入れがたい内容になっていると思いますの。

最終的に、赤壁の敗戦はそうなるべき運命であったので、曹操の責任ではない。賈詡の意見は誤りである、とまで裴松之は言っておるのじゃよ。

ここで赤壁の敗戦と言う事実に目を背けて曹操殿の考えは間違っていなかった、と天命論に逃げるあたり、少なくとも賈文和殿の件に関して、裴松之の意見は聞く耳を持つ必要がなさそうだな。 

馬超等、関中軍との戦い

212年になって曹操が漢中の討伐に向かおうとした時のことじゃ。関中の馬超等諸将は反逆を起こしたんじゃが、その内膠着状態に陥ってくると、馬超等は黄河以西を割譲し、その代わりに人質を送る、と言ってきたんじゃ。

じゃが元々馬騰等が中央にいるのに反乱を起こしているのに、人質の意味など無意味じゃろう。曹操もそれを理解しているから、当然それを拒絶するんじゃよ。  

じゃが、これを策略に生かせると賈詡は考え、それを承諾するように主張したんじゃ。曹操賈詡の計略の内容を質問すると、賈詡「彼らを分離させるまでです。」と答えたんじゃ。

曹操「わかった。」と言い、全て賈詡の謀を採用したんじゃよ。

具体的には、まず彼らの割譲要求を承知するんじゃ。すると、次に韓遂曹操との会見を申し込んできたんじゃ。

二人は馬を交えてしばらくの間語り合ったが軍事には言及せず、ただ都における昔のこと等を語り、手を打って笑い楽しんだんじゃ。

返ってくると馬超らは韓遂に質問をしたんじゃ。「公は何をしゃべっていたのだ。」

韓遂「何も言わなかったぞ。」

馬超らはこの話を信じず、韓遂に疑いを抱くようになったんじゃ。

別の日に曹操はまた韓遂に書簡を送ったんじゃが、消したり書き改めたりした個所を多く作り、あたかも韓遂が改訂したかのように見せた、とあるんじゃ。

これにより馬超等は更に韓遂に疑いを抱き、関中軍は分裂寸前となったんじゃ。

そのタイミングを計って曹操は日を決めて合戦し、彼らを撃ち破ったんじゃ。 

馬超韓遂を疑うさまは、丁度李傕が樊稠を疑って殺害したのに状況が似ているな。涼州人は馬騰韓遂のように盟友であっても互いがすぐに疑い争う性質がある。そう言うのを利用していると言えるだろうな。    

そうですな、さて、文字数的にはまだ多少の余裕があるが、残りの紹介と人物評価まで含めるとかなりの量になってしまう。今回はここまでじゃな。次が賈詡の紹介のラストになるぞい。良ければご覧くだされ。 

 

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