さて、今回は辺章の紹介じゃな。字や生没年は不明じゃな。また辺章は別名で允と言う名もあったようで、辺允と呼ばれることもあったようじゃな。
さて、今回は辺章の人物紹介じゃな。
どうも、張郃だ。ふむ、今回は辺章か、確か病死しておったように思うが、191年でまだ生存していたのかね。
そう言えば結構早い時期に亡くなったような印象がありますがどうなんでしょうか。
その辺りは実際の彼の事跡を追いかけてみてみるとしようかのう。
よろしくお願いします。
人物紹介
さて辺章じゃが、魏書『武帝紀』の裴松之注『典略』によると、元々西涼方面で韓遂と共に名声を挙げておったようなんじゃよ。
韓遂は計吏、辺章は督軍従事となっておったようじゃな。
督軍従事は恐らく州の軍の管理役を担っておったのであろうな。と言うことは軍事に優れた人物と目されておった訳だ。
詳細までは掴めんのじゃが、恐らくそう言うことじゃろうな。しかも韓遂と並ぶほどであるから、かなり優秀だったのではなかろうか。
さて、韓遂は一度都の招聘され、その時に宦官誅滅を進言するんじゃが、当時の大将軍何進からは色好い返事をもらえんかったんじゃよ。
そして韓遂が西涼に戻ってきた時に、宋揚、北宮玉は反乱を起こし、彼等に担ぎ出される形で韓遂と辺章は盟主とされるんじゃ。
彼らは官軍を破ったりする等、なかなか順調にしておった、じゃが王国が陳倉を囲った時、皇甫嵩に大敗北を食らい、西涼方面へ逃げ帰ることとなるんじゃ。
その後、辺章は病死、とあるが一説によると韓遂が殺害した、と言う話もありどちらが正解なのかは分からんのじゃよ。
ふむ、それだけだと辺章がいつ亡くなったかは見えてこないな。
これは真偽のほどははっきりせんのじゃが、董卓が長安遷都の発言をした際のことじゃ。『漢書』によると、董卓の発案に対して楊彪が反対意見を述べていると怒った董卓は「公はわしの計画を阻止するつもりなのか。隴西の辺章と韓約(韓遂)から手紙が参り、何としても朝廷に遷都を決めてほしいと言ってきている。~以下略~」と発言しておるんじゃよ。
なるほど、手紙自体が董卓の出まかせかもしれんが、まだこの時期辺章の名前に意味があったのは確か、と言うことだな。
そうじゃな、しかも韓遂より先に名前が出ていると言うことは、当時は辺章の方が名に重みがあった・・・のかもしれんのう。だから目障りになって韓遂は殺害したのかもしれんのう、まあ本当のところは分からんがのう、ほっほっほ。
さて、辺章の人物紹介はここまでじゃな。続けて能力評価と行こうかの。もちろん彼は・・・うむ、ワシの紹介のみじゃな。
能力評価
辺章は元々、州の軍の管理を任されておったこと、また韓遂に並ぶ名声を得ていたことから、全体の評価はやや高めじゃ。実際に軍事と統率は韓遂と互いに競い合うような評価じゃな。
じゃが実績自体はほとんどないため、韓遂に比べると、全体的な評価は気持ち抑えめじゃな。
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雑談ぢゃ
さて、辺章の能力評価じゃが、如何かのう。
韓遂より、軍事と知謀が高めで統率と政治は韓遂の方が高め、互いが互いを補うような評価にした、と言うことだな?
どちらかと言えば軍人よりのオールラウンダーと言った感じですね。
そうじゃな。軍事と統率共に100を超えるし、知謀も100近くなることから前線の郡を任せられる人材と言う感じじゃな。
ふむ、馬騰軍が全体的に軍事に偏った編成であるのに比べ、宋建陣営は随分とバランスの良い勢力になったのだな。
宋建の王国が30年維持できておるしのう。馬騰や馬超と比べて、宋建も韓遂も最後まで西涼方面で粘れたことを評価したいんじゃよ。宋建陣営が馬騰陣営を吸収出来れば、後に馬超も加わってくるし、なかなか侮れない勢力となりそうじゃな。。さて、辺章の紹介如何じゃったかな。良ければ次もまたご覧くだされ。
よし、それでは俺も帰るか、次もよろしく頼む。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。