さて、今回紹介する人物は陸康じゃな。字は季寧。生年は126年、没年は195年とのことじゃ。これはネットのWikiの情報なんじゃな。さて、姓を見て分かる人は分かるかと思うが、ある人物と非常にゆかりの深い人物なんじゃよ。
さて、今回は陸康の紹介じゃな。
どうも、張郃だ。呉の有名な武将達の一族だな。
と言うことは陸遜ですか、まさか。
陸遜ももちろん一族の一人じゃが、陸康と一番地の繋がりが強いのは陸績だな。陸康は陸績の父親に当たる人物じゃ。
陸績・・・はかろうじて覚えている、気がします。
陸遜じゃないと分かったらいきなりトーンが落ちたのう。陸績も相当凄い人物であるのに、まあ良い、それでは陸康について見ていくとしようかのう。
人物紹介
さて陸康の出番じゃが、基本は『陸績伝』に大まかなことは書かれておるんじゃよ。
『陸績伝』の裴松之注、謝承の『後漢書』によると、陸康は若い時から親や兄たちに心を込めて仕え、自らの行いをより高いものにすることに務めた、とあるんじゃ。
郡の太守であった李粛が彼を孝廉に推挙したんじゃが、ある時この李粛が罪に連座して処刑されてしまうんじゃ。
すると陸康はその遺骸を棺に納め、柩に付き添って潁川まで送り届け、彼のために喪に服し、服喪の礼を正しく守った、とあるんじゃ。
なかなかできた人物であるな。自身を引き立ててくれた上役のために喪に服しているのはちょっと王允殿を思わせるところがあるな。
さて、その後陸康は茂才に推挙されるんじゃが、この時に彼を推挙したのは臧旻、臧洪の父じゃな。
『後漢書』の続きを見ると、陸康はその後3つの郡の太守を歴任したが、それぞれの郡で治績を上げた、とされるんじゃ。
更にこれはWiki情報なので申し訳ないが、盧江では賊の黄穣と言う人物が乱を起こした時に、賞罰を明らかにして黄穣を撃破し、降伏した者は受け入れて乱を鎮めるのに成功したんじゃ。
将としても相としても優秀、と言うことだな、さすがに名門陸氏の頭領だけのことはある。
そしてそのまま、盧江太守として統治をするんじゃが、袁術が陸康に米三万石を供出するよう要求したのを陸康は断ったんじゃ。
袁術はこの辺りの経済観念がガバガバじゃからな。じゃがこれにより袁術は陸康を攻撃するんじゃよ。軍を率いるのは孫策、そう後に揚州を席巻するあの孫策じゃ。
孫策はかつて陸康の下を訪れた時、陸康が会おうとせず主簿に対応させた、と言うことで遺恨に思っていた、とあるんじゃよ。
これが本当だとすると、随分小さなことで起こっている孫策も大概ではないか。どうもこれは呉の名族陸氏を攻撃するための口実を持たせるための話ではないのか。
確かにこれで遺恨に思うと言うのは、むしろ孫策の器量を小さく見せることになりかねんのでは、と思えるのう。単純に袁術の命令だから拒否できずに攻撃した、で良い話じゃと思うぞい。
さて、孫策の攻撃を受けた陸康であるが、約2年に渡って防衛に努めたが、その間に陸康は病死し、主を失った城はその後陥落してしまうんじゃ。
『陸遜伝』を見ると、孫策の攻撃の前に、陸康は陸遜を親戚の者達と一緒に呉に帰らせているんじゃよ。
陸遜は陸康の兄弟の孫に当たり、本来なら自分の息子の陸績が取りまとめ役になるべきであったんじゃが、陸績の方がまだ陸遜より数歳若い(陸遜でもまだこの時13~14歳程度)であるから、致し方なしと言うところじゃろうな。
陸遜たちは呉に戻れたものの、陸氏はかなりひどい状況で親族の半数が死に至った、と言うことなんじゃよ。戦国の世の倣いとは言え悲しい話じゃな。と言ったとこで陸康の人物紹介はここまでじゃな。続けて能力評価と行こうかの。今回は・・ワシのみの評価じゃの。
能力評価
陸康は賊討伐や、各郡の統治などで実績があり、非常に名声も高かったことから、統率と政治を高く評価したんじゃ。
特にあの孫策の攻撃を年数かけて防いでいることから統率をより高く評価した感じじゃな。
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雑談ぢゃ
さて、陸康の能力評価じゃな。
ふむ、盛憲同様、統率と政治の高い、君主向きの評価と言うことだな。
これは陸遜の評価との関連性もありますか。
うーん、バランスは良いが、陸遜とはまた少し傾向は違うかのう。
まあ陸遜の場合、優れた知略が目に付くから、陸康と比較した場合、少し傾向は違うであろうな。
そうじゃな、陸康ももう少し精細な記録があれば、もう少し評価が高まっていたであろうに、惜しいのう。さて、今回はここまでじゃが、陸績の父、陸遜の従祖父に当たる陸康について如何じゃったかな。良ければ次もまたご覧くだされ。
よし、それでは俺も帰るか、次もよろしく頼む。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。