さて、今回紹介する人物は王詳じゃな。字や生没年は不明、姓を見てもらえばわかると思うが、王朗の一族なんじゃ。じゃが彼の人生はあまり詳しくは分からんのじゃよ。
さて、今回は王詳の紹介じゃな。
どうも、張郃だ。確か王朗殿の兄の子であったかな。
王朗は演義でも悪い面ばかり目立ってて、他の一族の方達がどんな人物であったかはあまり見えてこないですね。
そうじゃな、実際のところ、王朗の著述が当時非常に重要であり、また息子の王粛が鄭玄と並び、後漢から三国志の時代を代表する学者であったように、学識の深さは諸葛亮達でも及ばないほどと言えるじゃろう。
それだけの人達の事績がきちんと伝わらず、分かり易い人たちばかりがもてはやされる、と言うことですか。
まあ別にそこまで言ってるわけではないが、知ってる人にはきちんと評価してもらいたい、と言う思いはあるかのう。とは言え、王詳はそこまで重要な人物ではないがのう。
人物紹介
さて、王詳に関してはあまり多くは書かれていないんじゃよ。
文帝(曹丕)が帝位に就いた前後じゃと思うが、王朗が今だ健在であった頃に曹丕は王朗の領地を分割して、一子を列侯に取り立てた時があるんじゃ。
列侯は臣下が受けることのできる爵位の中でも最上位のものだな。まあ列侯の中にも序列はあるが、それは下を見てもらえば分かるぞ。
王朗の功績を鑑みて一子は取り立ててもらったんじゃが、この時に王朗は兄の子である王詳も取り立ててもらうよう願い出たんじゃ。
具体的に王詳がどのような爵位を授けられたかは分からんが、王朗の一子と同じ列侯か、最低でも関内侯には取り立ててもらっていたのではなかろうか。
この時代、例えば曹操も世間的には無名の一族の祭祀を絶やさぬよう、養子をとらせた記述があるんじゃ。
王朗も自身の兄弟の一族がやっていけるように、自身の領地を削ってでも取り立ててもらうようにしておったと思うんじゃよ
逆に言うと、王朗に取り立ててもらわねばならないことが、王詳自身には王朗ほどの才能はなかったのかもしれんがのう。
さて、王詳の人物紹介はこれで終わりなんじゃよ。続けて能力評価と行こうかの。今回はワシの評価のみじゃな。
能力評価
王詳は王朗の願いによって取り立ててもらったこと以外はほとんど記録に残っていないため評価の非常に難しい人物じゃな。
一応王朗の評価をベースとして、全体的に小粒な感じにしたのが王詳の評価なんじゃよ。わざわざ取り立ててもらうことを願ったのはそれなりに優秀だったのでは、と思ったりもするがさすがに分からんのう。
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雑談ぢゃ
さて、王詳の能力評価じゃな。
ふむ、王朗殿を全体的に小粒にした感じか。
記録がないと何が得意だったのか、等は分からないですね。
そうじゃな、ワシも今回改めてテキストを書き著して初めて気が付いた点じゃったからな。これは仕方なかろう。
しかしこうやって見ると、王朗殿は統治者として、結構理想的な評価となるのだな。
まあ余程異端の人物でなければ、一族の中では似た傾向を持つと思うので、極端に違ったりはしないと思うんじゃよ。まあ難しいところではあるがのう。さて、今回はここまでじゃな。
よし、それでは俺も帰るか、次もよろしく頼む。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。