今回紹介するのは曹礼じゃな。彼は曹丕の息子の一人で、もしかすると皇帝になっていたかもしれない人物だったんじゃ。どう言うことか、おいおい見ていくとしようかのう。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は曹礼の紹介じゃな。曹丕の息子で、もしかしたら皇帝になったかもしれない人物だったんじゃよ。
曹丕の息子と言うことは、曹叡の代わりに二代目皇帝になったかもしれない、と言うことですよね。それだけ有力だったのですか。
まあ実際文帝が明帝を後継者として指名したのは、亡くなるわずか数ヶ月前のことだからな。そこまで迷っていたのは確かだろう。
さて、それでは曹礼について見ていくとしようかのう。
能力評価
さて、それでは彼の時代の記録について見ていくとしようかのう。
軍事・統率・知謀・政治
曹林の情報は主に魏志『元城哀王礼伝』に載っているんじゃよ。
元城の哀王曹礼は、黄初二年(221年)、秦公に取り立てられ、京兆郡を領国とした。
三年(222年)、京兆王に改められ、六年(225年)、元城王に国替えされた。
太和三年(229年)逝去した。(『元城哀王礼伝』)
文帝は最初明帝を好まず、他の夫人(徐姫)の子供である京兆王(曹礼)を後嗣ぎにしたいと言う気持ちを持っていた。だから長期間(明帝)は太子になれなかったのである。(『明帝紀』裴注『魏略』)
曹叡を好まなかったのは、母親のことが関係しているのでしょうか。
詳細は分からないな。ただ明帝に取って代われる人物、と考えると、それなりに魅力的で評価が高い人物であった可能性はあった、と言うことか。
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簡単解説
さて、よくよく見るとこれで曹一族は最後ですね。長かったですね。
半年はかかっているのか?確かに長かった。少しずつであるが、お主の師匠も休むことなく順調に・・・はいっていないのか?
むむ、いや、歩みは遅いが順調に人物紹介は消化していってるぞい。もう少しサクサク進めたいがのう。
さて、これで曹一族が終わった美で、一度ランキングの方もやってみようかのう。と言ったところで今回はここまでじゃな。
よし、それでは俺も帰るぞ、次もよろしくな。
張郃さん、お疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。