さて、今回は士壱の紹介じゃな。字や生没年は不明。彼の事跡を見ていくと、何となく孫呉陣営の闇の部分が見えてくる、気がするんじゃよ。それでは士壱について、見ていくとしようかのう。
さて、今回は士壱の紹介、と言っても知らない人が多いかのう。彼は士燮の弟にあたる人物じゃな。
どうも、張郃だ。彼も兄同様優秀であったことが伺えるが、最後は少々可哀そうな終わり方であったな。
私は全然知らないので紹介よろしくお願いします。
うむ、それでは士壱について、早速見ていくとしようかのう。
人物紹介
刺史との関係
元々士壱は郡の督郵を担っておったんじゃ。督郵と言うと劉備に(演義では張飛)に鞭打たれた人物が有名じゃが、本来は郡下の各県で不正や能力に問題がある人物がいないか、監督する立場であり、そんな人物を鞭打つと言うのは、本来許されざる蛮行である訳じゃな。
劉備の場合は監督される立場であったにもかかわらず、面会を拒絶されると無理やり乗り込んで彼を縛り上げ鞭打つと言う暴挙に出ているからな。血の気がまだ荒かったのであろう。
さて、ちと横道に逸れてしまったが、この時刺史の丁宮と言う人物が京師に召し返されることになった時、士壱は心を込めて送別したそうなんじゃ。
丁宮はそれに感激し、別れに臨んで言ったんじゃ。
「私がもし三公の職を務めることになったなら、きっとあなたを召し寄せよう。」
単に送別したからではなく、恐らく彼の才能も見込んでの言葉と思うんじゃよ。そしてそれは後に実現するんじゃ。
司徒からの辟召
後に丁宮は実際に司徒となり、前の言葉通り、士壱を京師に召し寄せたんじゃ。
じゃが彼が京師に着いた頃に情勢が少し変わっており、丁宮は官を免ぜられており、後任に黄琬が就いておったんじゃよ。
とは言え丁宮の口添えもあったのか、黄琬もまた士壱を厚く礼遇したんじゃよ。裴松之注に引く『呉書』によると、士壱も黄琬のために働き、それは黄琬と董卓の関係が悪化した時も変わらんかった、とあるんじゃよ。
ある意味、侠客と言うべき人物だったのかもしれんな。自身を認め信頼してくれた人物相手には、万難を排して尽くす、と言う感じか。
これにより士壱は非常に高い評判を得た、とあるんじゃよ。そして同時にそれは董卓の憎むところとなり、董卓は次のような布告を出すんじゃ。
「司徒掾の士壱は官に任用してはならぬ。」
そのため何年も官位の昇進がなく、その内に董卓は宮廷全部を引き連れて関中(長安)へと移動したので士壱は官を捨てて郷里に帰った、とあるんじゃよ。
ここは誇張を感じるな。黄琬は189年の後半に司徒になっており、董卓が長安への遷都は190年末から191年頭の出来事だ。何年もと言う期間ではあるまい。
地元に戻った士壱であるが、朱符や張津ら刺史が異民族の反乱などで命を落とすことになると、士燮は上奏して自分たちの弟を各郡の太守に任じ州内の勢力を拡大していくんじゃ。
この時に士壱は合甫の太守に任じられ、見事に治めることに成功しているようじゃな。
孫権への献上品
後に士燮が孫権に下ると士壱もそれに従い、孫権の支配下におさまるんじゃよ。後に雍闓を味方に引き入れた時は士壱を偏将軍・都郷侯に任じるほどだったんじゃ
そして士燮が孫権に多数の雛を貢納しておったことは以前書いた通りじゃが、士壱もまた孫権にある者を貢納しておったんじゃが、それは何と軍馬数百頭にも及んでおった、とのことなんじゃな。
現在の競走馬とはもちろん違うが、この当時も馬産地と言うのは結構限られた地域でのモノだった。呉には馬産地が少なく、軍馬不足によりなかなか北に攻め込むことができない、と言う問題があったからな。
軍制をみると呉の率いる騎馬の割合は曹魏のそれと比べると1割程度だった記録もあるからのう。本来北方に多い馬産地がまさか南方にあるとは孫権も思っていなかったじゃろうな。この辺りからも士壱の統治がうまく行っていたのではないか、と思われるんじゃよ。じゃが、ここから士一族の栄光に影が差してくるんじゃな。
孫呉陣営の謀略
時代は226年、兄の士燮が亡くなると孫権は本格的に交州を自分のものとするために、士一族の権益を奪い、圧力をかけてくるようになるんじゃ。
これに士壱は従っておったんじゃが、士燮の息子の士微は孫権に反旗を翻してしまうんじゃ。
じゃが、派遣された呂岱の策で、降伏すればその身の安全を保障する、と言う言葉を反故にされ、降伏したところで全員捕まり処刑されてしまったんじゃ。恐らく戦争になれば士一族に味方する者も多く、制圧に時間がかかることになるであろうから、それを防ぐための策略なんじゃろうが、ちょっと読んでて後味の悪い話じゃな。
彼等には味方しなかった士壱じゃが、同族故に責を受けないといけない立場で、本来は死罪のはずだったんじゃが、出頭したことで減刑され、庶民に落とされることで許されたんじゃよ。
じゃがその数年後、法を犯したと言うことで処刑された、とあるんじゃ。
この頃の士壱は若く見ても80を超えておるであろう。一体どんな罪で処刑せざるを得なかったのか。この辺りも孫呉の闇を感じてしまうのう。さて、そんなところで士壱の紹介は終わりじゃ。続けて能力評価と行こうかの。彼も鄭問さん以外の作品に登場じゃな。
能力評価
士壱はエピソードを見るに兄にも劣らない逸材だったと思えるんじゃ。兄がどちらかと言うと知略政略面で優れた才能を示していたのに対し、優れた徳性で人を魅了する人物であることから統率を特に高く評価したんじゃよ。
また軍馬を数百頭揃えたことなどから、軍事面を支えた一番の人物だったのではと考え、軍事の評価も高くしたんじゃ。
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雑談ぢゃ
さて、士壱の能力評価じゃな。
ふむ、お主が一番評価が高いのだな。
軍馬を生産していたから軍事が高い、と言うのはちょっと微妙じゃないですか?
まあ、それを言われると弱いんじゃが、個人的にはこの端の勢力から全土統一する勢力が出て欲しい、とも思っているんじゃよ。士燮に限らず公孫度や宋建も同じじゃな。
確かに公孫度の所も軍事に優れた武将がいたな。宋建の所にも閻行や韓遂、成公英と言った逸材を配しているな。
どうせなら曹操や劉備、孫堅と言ったありきたりな勢力以外にももっと目を向けて欲しい、と言う思いを込めてじゃな。さてと言ったところで士壱の紹介はここまでじゃな。
よし、今日はここまでだな、俺も帰るとするか。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。