三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

那楼(なろう) 字:不明(?~?)

さて、今回は烏丸の那楼の紹介じゃな。上郡の単于代行とあるが、上郡は幷州で結構易水からは遠いんじゃよ。上谷郡が近いと思うんじゃが、上谷には難楼と言う人物を以前紹介しておる。この辺りの関係も気になるのう。

 

さて、今回は那楼の人物紹介じゃな。恐らくじゃが上郡ではなく、上谷の単于代行だったと思うんじゃ。ネットを見ると難楼と同一人物だったのでは、と言う説もあるようじゃのう

 

 

どうも、張郃だ。難楼は袁紹殿の独断とは言え単于になっている。元から上谷の九千余家を従えていた人物だ。 

張郃さんとしては那楼と難楼は別人と思われているということですか?

元々上谷の烏丸族を支配していた訳だから、普通に考えれば「単于代行」などとは書かれない。自分は難楼を直接見知ってはいないから何とも言えないが、別人と見ても特に問題はないだろう。 

そうじゃな。同一人物の可能性もあるが、難楼は霊帝初期の頃(168年頃)から名前が出ているようで、もし168年頃に20歳前後だったとしても、206年では60歳近い年齢じゃ。

実際のところ、168年頃にもっと年を食っておってもおかしくなく、何時代替わりしていたとしてもおかしくないんじゃよ。一応史書では別人物として扱っていることから、ここも別人物として見ていくぞい。それでは那楼について見ていくとしようかのう。

能力評価 

爺評価(Max.200)
   軍事   統率   知謀   政治 
 那楼(20歳)  80 65 55 70
 ↓ ↓ ↓  ↓↓ ↓↓
 那楼(45歳)  112 95 84 101

 

さて、それでは各項目ごとに評価理由を見ていくとしようかのう。

軍事・統率・政治

魏志武帝紀』を見ると、遼東に逃げ込んだ袁尚や蹋頓が公孫康に斬られ、曹操が易水に到達した頃、上郡(上谷)の単于代行の那楼が配下の名王を引き連れて祝賀に来た、とあるんじゃよ。

蹋頓は丘力居の息子が成人した時に、単于から王に格下げになっているように、烏丸族内部でも勢力争いはあったようだ。そう考えると上谷の烏丸族は蹋頓に従っていなかったのかもしれないな。 

そして蹋頓が滅ぼされたことで、曹操に祝賀を述べに来た、と言うことですか。異民族内部も複雑そうですね。とは言え、その辺りの政治的判断から、異民族としては政治を高く評価したのですね

それと上谷の烏丸族は難楼時代に九千余家従えていた、とある。代行の那楼もそれだけの規模を従えていたであろうことから統率も高めの評価なのだな。 

知謀

知謀に関しては特別な記載はないことから、そこまで高い評価にはしておらんのじゃ。

とは言え、タイミングを見計らって曹操へ祝賀に来ているわけですから、低いわけでもない、と言うことですね。

 

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簡単解説

上谷の烏丸族の規模から、代行とは言え結構高い評価になりましたね。

他で言うと寇婁敦と余り変わらない評価だな。確かに代行としてみると結構高い評価に思えるな。  

それにしても異民族は似た名前で同一人物の可能性がある人が多くて、資料としてどれが正しいのかを精査するのは大変そうですね。

彼等の名前に関しては、韻を元に漢字に当てはめているだけであるからな。仕方のない部分はある。

同一人物である可能性も含めつつ、両者の評価がどう違ってくるのかを見るのも楽しい話じゃがな。もし同一人物であれば、両者を一軍にまとめれば、それらしい評価になる訳じゃからのう。さて、そんなところで今日はこれにて終わりじゃな。

よし、それでは自分も戻るとするかな。  

張郃さん、お疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。