三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

劉禅(りゅうぜん) 字:公嗣(207~271)その1

さて、今回は劉備の息子であり、蜀の二代目皇帝劉禅の紹介じゃな。彼の幼名の阿斗は無能の代名詞として有名じゃが、彼の実態がどんなものか、実はあまり知らない人が多いのではなかろうか。

 

さて、今回は劉禅の紹介じゃな。蜀の二代目にして最後の皇帝となった人物だな

どうも、張郃だ。実際彼に関しては、列伝されてはいても彼自身の言動と言うのは見えてこないんだな。 

あ、張郃さん、蜀志『後主伝』を読まれたのですね?

うむ、そこには各年に発生した事績が完結にまとめられているのみで、劉禅自身の発した意思や行動と言うものがほとんど見えてこないのだな。 

その中で唯一、彼の意志が見えてくる部分もあるんじゃな。今回はその辺りを中心に能力評価を見ていくとしようかのう。

能力評価 

爺評価(Max.200)
   軍事   統率   知謀   政治 
 劉禅(20歳)  20 80 15 65
 ↓ ↓ ↓  ↓↓
 劉禅(45歳)  46 112 40 95

 

さて、それでは各項目ごとに評価理由を見ていくとしようかのう。

統率・政治

さて、劉禅自身の考えで見ていくと、蜀志最後の『華陽国志』李邈と言う人物がいたんじゃ。彼は劉備と揉め、この時は諸葛亮にかばわれるも、後に北伐の最中にも諸葛亮を怒らせる発言を行っておったんじゃよ。

更に諸葛亮五丈原で亡くなった際のことじゃ。劉禅は白い喪服を身に着け、三日間哀悼の意を表したんじゃよ。じゃがここで李邈は最悪の発言をしてしまう。

「(前略)諸葛亮は強力な軍兵を擁し、狼の如く後を振り返り、虎の如く機会を狙っておりました。所官の長は勢力が強大な場合は、辺地の任に着けてはならないもので、臣はいつもこれを危ぶんでおりました。

諸葛亮が死去しましたのは、つまり御一族には安泰を得られ、西戎は安息を得たと言うことでありまして、全ての人にとって喜ぶべき事態であります。」

何だかんだで諸葛亮を慕っていた劉禅はさすがにこの発言に怒り、獄に下して彼を処刑した、とあるんじゃ。

どうも李邈と言う人物は劉備諸葛亮に対しても、面と向かって上のような空気を読まないことを行っておったようだな。

なるほど、上のようにまっとうな判断ができること、それと命も危険もあっただろうに、最後は自ら降伏を決めて鄧艾に降伏した判断力などから、政治は少し高めなのだな。 

統率は父親の劉備同様、個人の魅力としてのことですかね。曲がりなりにも40年蜀の皇帝としてあり続け、皇帝の座を引きずり落されることがなかったこととかを評価してのことでしょうね。 

軍事・知謀

武将としてや知略での活躍は全く見られないことから、軍事と知謀と抑えめと言うことじゃな。

この辺りはまあ納得ですね。 

 

三国志14(Max.100)
   統率   武力   知力   政治   魅力 
 劉禅  3 5 9 4 68

 

天舞~三国志正史~(Max.16)
   武勇   采配   策謀   政治   外交   人徳 
 劉禅  1 1 1 1 1 10

 

鄭問三國志(Max.30)
   武勇   統率   知謀   政治   健康 
 劉禅  1 8 7 9 13

 

 ↓ バナーをクリックしてくれるとうれしいぞい

 

簡単解説

三国志14は魅力以外で「さん、ご、く、し」となるような評価なんですね。

さすがにふざけすぎであろう。実際に無能と判断するかどうかは別にして、見ていてあまり気分の良いものではないな。  

そういう意味では天舞三国志は潔いですね。

そうだな、それとちょっと意外だったのが鄭門三国志だな。有能とはいかないまでもそれなりに能力がまとまっている。

鄭問三国志は言われるよりも案外有能かも、と言う話が出た時期に能力評価されたのかもしれんのう。さて、今日のとこは一旦終わりじゃな。次は劉禅に関する変わった逸話を見ていくとしようかのう。

それでは俺も帰るとするか。次もまたよろしく頼む。  

張郃さん、お疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。