さて、今回は夏侯儒の紹介じゃな。彼は夏侯尚の弟らしいんじゃが、彼の記録は魏志『夏侯尚伝』には」あまり記述がない人物なんじゃよ。
さて、今回は夏侯儒の紹介じゃな。彼はまた評価が非常い難しい人物じゃな。
夏侯尚の弟として征南将軍・都督荊予州諸軍事にまで登った人物だな。
地方軍のほぼ最高位にまっで登っていると言うことですね。官位に対して能力が伴っていなかったのでしょうか。
最終的な立場を考えると、そう言う判断を下されても仕方ないかもしれないな。
彼の記録は魏志『張既伝』の裴松之注『魏略』にその記録が載っておる。それでは順に夏侯儒について見ていくとしようかのう。
能力評価
さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。
軍事・統率
魏志『張既伝』を見ていくと、夏侯儒は基本的に優秀な別の武将と共に結果を残しておるが、ちと微妙な逸話があるんじゃよ。
文帝の時代、涼州の各地で反乱が発生した時に張既が反乱討伐の任に就いたんじゃが、この時に後続部隊として、将軍の費曜と護軍の夏侯儒が派遣されたんじゃ。
この時張既は電撃戦で黄河を渡り、素早く武威郡を制圧するんじゃが、ここで費曜は追いつくんじゃが、夏侯儒はこの時点ではまだ追いついていなかったんじゃな。
また裴松之注『魏略』によると241年、朱然が樊城を包囲した時に、救援に赴いた夏侯儒じゃが、兵力が少ないために思い切って進めなかった、とあるんじゃよ。
結局この時は後に司馬懿が到着することで朱然を逃走させることに成功したんじゃ。
とは言え、単独で朱然を追い払うことができなかったのは、少し印象が悪いと言うことか。
張既の征伐でも後れを取っているのは評価としては少し抑えめになるのは致し方ないか。
知謀・政治
さて、そんな夏侯儒じゃが、この朱然との戦いの時にはちょっとしたエピソードがあり、ここが評価を難しくしているんじゃよ。
この時、兵力が足りず進めなかった夏侯儒は、太鼓や笛を鳴らし、先導と従者を置いて掛け声をかけることで、樊城の守兵たちを力づけようとしておった、と言うんじゃ。
人によっては、これは無勢で多勢を迷わせることを心得ており、理に適っている、と考えるものもいたんじゃよ。
なるほど、少し知謀が高いのはこの工夫を行っているが故、と言うことか。
ただ、やはり魏国内での評判はあまり良くなかったらしく、この一件の後召喚され、太僕となった、と言うことなんじゃよ。
結局同時代の人たちからの評価はあまり高くなかった、と言うことですか。
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簡単解説
三国志14は結構政治とかも高いのですね。
太僕は天子の車馬を扱う九卿の一つだからな、役職だけで言えば文官職もこなしている、もっとも・・・
実際の権力があった訳ではない、と言うことですか。
そうだな、この頃はほぼ名前のみで実権があった訳ではない、名誉職のようなものと考えてもらっても良いだろう。
司馬懿も一時期太傅に祭り上げられておったが、あれも同じようなものじゃからな。まあそれだけ魏には余裕があった、と言うことなのかもしれんのう。さて、それでは今日の所はここまでじゃな。
よし、それでは俺も帰るとするか。
張郃さん、今日はお疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。