さて、今回は魏の曹叡が下した詔勅の数々について言及していくとしよう。パッと見ただけであるが、詔勅の内容から見ても彼が非常に優れた君主であることが伺えるんじゃよ。
さて、今回は曹叡が下した詔勅の数々を見ていくとしようかのう。
どうも、張郃だ。明帝は連年様々な布告を下しているが、それを見ても非常に優れた為政者であることが分かると思うぞ。
まあ、布告を見ると多分納得いくものがあるのではないかのう。それでは順にみていくとしようかのう。
人物紹介
228年の詔勅
魏志『明帝紀』によると228年6月、詔勅を下して言ったんじゃ。
「儒者を尊重し、学問を大切にするのは帝王の教化の根本である。最近儒学を以て仕える官吏に適任者がいない場合があるが、これではどうして皇帝の優れた道を広く天下に明らかにすることができようか。
よって博士を選りすぐって、才能に応じて侍中・常侍の職に任命せよ。郡国に詔勅を出して貢士には経学に優れたものを優先させるようにさせよ。」
この時期、自分も同郷の人物を学者として推薦したのだったな、懐かしい話だ。
229年の詔勅
続いて229年7月、詔勅を下すんじゃよ。
「礼では、王后に後継ぎの子がない場合には、傍系の者を選び立て、本家を継がせることになっている。
その場合には当然正しい血統を受け継いで、公的な道義を奉ずるのであるから、どうして私的な実の親を考慮することが許されようぞ。
~中略~
万一後継ぎが諸侯の中から出て入朝し、大いなる皇統を受け継ぐ場合、他家の跡取りの取るべき建前を明白に示すべきである。
敢えて口先巧みな言葉を使い、邪悪な行為をし、時の皇帝におもねり誘導し、みだりに正当ならざる称号を立てて正しい皇統を犯し、(皇帝の)亡父を皇と呼び、亡母を后とするようなことがあったならば、たとえ補佐の大臣であったとしても、誅殺して決して許してはならぬ。
よってこの詔勅を金策(黄金製の札)に書き記し、祖先の霊廟におさめ、法典に書きとどめておく。」
さらに、それまで洛陽の宗廟はまだ完成しておらず、先祖の位牌は鄴の霊廟に置かれていたんじゃが、この年の11月に霊廟が完成したので、曹騰・曹嵩・曹操・曹丕の位牌を鄴へ迎えにやり、12月10日洛陽に戻って霊廟に安置したんじゃよ。
皇統の正統性をきちんと明確にし、阿りは決して許さない、228年の詔勅もそうですが、一本気で生真面目な性格が伺えますね。
そうじゃな。陳寿は先祖の事業を整え、大業の基礎を固めようとしなかった、と言うが何の何の、宗廟を完成させ、位牌を鄴から洛陽に移すなど、やるべきことをきちんとやっているではないか。
231年の詔勅
231年8月の詔勅は次の通りじゃな。
「昔、諸侯を朝廷に参内させたのは親類同士を仲睦まじくさせ、あらゆる国々を和やかに協調させるためであった。
先帝が布令を発して諸王を都に在住させることを望まれなかったのは、幼い主上が位に就き、その母后が実際の政治を取っておられたので、微少なことが次第に大きくなるのを未然に防がんとするためであって、これは国家の盛衰に関わることだと思われたからである。
朕が思うに、諸王とは12年も会っておらず、どうしてはるかな思慕の念を起こさずにいられようか。よって諸王および親族の公侯に、それぞれ嫡子一人を朝廷に参上させることを命ずる。
後年、幼少の主上と母后が宮中に存在した場合には、やはり先帝の命令のように執り行うよう、重ねてはっきりと布令に書き記しておく。」
良く、魏は皇族を大事にしなかったことから司馬一族に乗っ取られたと言いますが・・・。
うむ、この布令を見る限り、曹叡はその辺りの危険性も考慮して、皇族を入朝させようと考えておったようじゃな。さて、まだまだ曹叡の布令は続くんじゃが、さすがにちと疲れたので今日はここまでじゃな。
それでは俺も帰るとするか。次もまたよろしく頼む。
張郃さん、お疲れさまでした。皆さまもまたよろしくお願いいたしますね。
↓ バナーをクリックしてくれるとうれしいぞい