さて、今回は曹真の息子の一人、曹訓の紹介じゃな。彼は曹真の息子で曹爽の後に武衛将軍になった人物じゃが、曹爽のついでに名前が載っている程度にしか、記録は残っておらんようじゃな。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は曹訓の紹介じゃな。第三世代の曹一族を率いるべきところだったんじゃが、そうはいかんかったようじゃな。
どうも張郃だ。司馬懿が老獪とは言え、なすすべなくやられ過ぎだな。
名前を見ても、調べないとどんな人物か分からないですね。
能力があれば、例えば兄の曹羲のような逸話が残っているはずじゃが、そう言うのは特にみられん。評価が難しい人物じゃな。
能力評価
さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。
軍事・知謀・統率・政治
魏志『斉王紀』を見ると、次のように書かれているんじゃよ。
嘉平元年(249年)春正月甲午の日(六日)、天子のみくるまが高平陵に参詣した。
太傅の司馬宣王(司馬懿)が上奏して、大将軍の曹爽、曹爽の弟の中領軍の曹羲、武衛将軍の曹訓、散騎常侍の曹彦を罷免し、諸侯の爵位のまま私邸に帰らせた。
安直ですが、武衛将軍になっていると言うことから、軍事が少し高めなのですね。
ただ、魏志『曹真伝』には次のように書かれておるんじゃよ。
曹爽の専横を、弟の曹羲は大変心配して、しばしば兄を諫めて止めるよう忠告し、また三篇の文章を書き著して、度を越した驕慢と淫楽は結局災いを招くと陳述した。
その言葉・内容ははなはだ痛切であったが、あえて曹爽を名指しで非難しようとせず、弟たちへの訓戒に託して曹爽に示した。
曹爽自身の問題が大きいが、弟への訓戒と言うことから弟たちも驕慢になっていた可能性があった、と言うことだな。
統率が低いのはその辺りの評判を汲み取って、のことかもしれませんね。
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簡単解説
三国志14の評価もちょっと師匠の評価に近いですね。
武力が一番高いのはやはり将軍号の肩書がものを言っているように思えるな。
うむ、記録がない以上は役職で考慮するしかないからのう。さて、それでは今回はここまでじゃな。良ければ次もまたよろしく頼むぞい。
よし、それでは俺も帰るとするか。
張郃さん、今日はお疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。