三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

曹邵(そうしょう) 字:伯南(?~?)

さて、今回は曹邵の紹介じゃな。彼は曹真の父であり、曹操の危機を自身が身代わりになって救った剛毅な人物なんじゃよ。

 

案内人 

くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。

弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。

張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。 

四方山話 

さて、今回は曹邵の紹介じゃな。曹真の父であり、『魏略』によると元の姓は秦氏であった、と言うんじゃよ。

まあ事実上、曹氏の一族のようなものだからな。元が秦氏であったとしてもどこかに曹氏の血が入っていたのではないかな。

曹真の父って、夏侯淵たちと同じぐらいの世代ですよね。どんな人物だったのか、興味がありますね。

しかし、彼には同じ出来事でも違ったエピソードとして各史書に書かれているんじゃよ。と言うことでその辺りの情報をまとめてみるとしようかのう。

能力評価 

爺評価(Max.200)
   軍事   統率   知謀   政治 
 曹邵(20歳)  75 80 70 50
 ↓ ↓ ↓ 
 曹邵(45歳)  106 112 101 79

 

さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。

軍事・統率・知謀・政治

彼の記録は魏志『曹真伝』に載っているんじゃが、裴松之注に違った情報が載っているんじゃよ。それぞれ見ていくとしようかのう。

太祖(曹操)が兵をあげた時、曹真の父曹邵は徒党を慕ったため、州郡によって殺害された。(『曹真伝』)

曹真は元の姓を秦氏と言い、曹氏に養育されたのである。ある人の説では、彼の父の伯南は昔から太祖と親しかったという。興平(194~195)末期、袁術配下の一党が太祖を攻め圧迫した。太祖は家を出たが、賊に追跡されたので、秦氏の下に逃げ込んだ。伯南は門を開いて彼を迎え入れた。賊が太祖の居所を尋ねると「わしがそうだ」と答え、その結果殺害された。(『魏略』)

曹邵は忠誠で才略があり、太祖によって信任されていた。初平(190~193)年間、太祖が義兵をおこすと、曹邵は仲間を慕り、太祖につき従って活躍した。当時豫州刺史の黄琬が太祖を殺害しようとした。太祖は難を逃れたが、曹邵だけが殺害された。(『魏書』)

確かに、「誰」が「どういう風に」曹邵を殺害したのかがバラバラですね。あ、でも一番下は確か黄琬の紹介のところで否定してたんでしたっけ。

 

 

そうだ。名士の代表である黄琬が、このような形で董卓に与するはずがない。『魏略』は創作クサいが、袁術は同じように暗殺者を送って劉寵の排除に成功している。同じことを曹操に対しても行っている可能性はあるな。 

 

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簡単解説

そう言えば袁術豫州に拠点を置いて、一時兗州に攻め込んだ時期もありますね。もしかしてその頃の話なのでしょうか。

それ以降となると、袁術は勢力をだいぶ後退させているから、暗殺のチャンスもないであろう。時期的にはこの可能性が高そうだ。

とは言え暗殺対象の曹操の顔を知らないというのもありえんと思うんじゃがのう。案外、見え透いた嘘をついたことで腹を立てて殺害したのかもしれんのう。さて、今日はここまでじゃな。

よし、それでは俺もまた帰るとするか。次もまたよろしく頼む。  

張郃さん、お疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。