さて、今回は曹詢の紹介じゃな。彼は曹叡の養子となり、皇帝候補の一人になりかけた人物だったんじゃ。じゃが彼もまた若くして亡くなったようじゃな。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は曹詢の紹介じゃな。彼は後に曹叡の後継者として皇帝になる曹芳と共に、曹叡の養子になった人物なんじゃよ。
曹叡には皇太子となれる子はいなかったのでしょうか?
何人かいたようなのだが、結局皆幼くして亡くなってしまったようだな。そこで彼らを養子に迎えたのだと、詳細は不明だが、彼ら二人は曹楷殿の息子だった、と言う説もあるな。
曹楷って確か、曹彰の息子でしたよね。まさか一番皇帝に縁遠そうだった曹彰の系譜から皇帝が出るとは、ちょっと予想外ですね。
まあ、こちらは裴松之注『魏氏春秋』に載っている話じゃから、どこまでが真実かは分からんがのう。
能力評価
さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。
軍事・統率・知謀・政治
曹詢の記録は主に魏志『明帝紀』に載っているんじゃが、分量がかなり少ないんじゃな。
青龍三年(235年)八月庚午の日(24日)、皇子の芳を立てて、斉王とし、詢を秦王とした。(『明帝紀』)
明帝が重体に陥った際、詔書を受け取った司馬宣王(司馬懿)が参内して明帝に目通りした。ねぎらいと見舞いのあいさつが終わると、明帝は斉王(曹芳)、秦王(曹詢)の二人の王を召し寄せて宣王に会わせた。(『魏略』)
この時、皇太子の芳は八歳、秦王は九歳であり、明帝の側にいた。(『魏氏春秋』)
あら、曹詢の方が年上なのですね。何か理由があったのでしょうか?
斉王の方が資質に優れていたのか、もしくは肉体の頑健さがあったのか、理由は分からん。が確かに秦王殿はこの後わずか5年ほどで鬼籍に入っているから、病弱であったのかもしれないな。
正始五年(244年)、秋八月秦王曹詢が逝去した。(『斉王紀』)
亡くなった時点ではまだ15に達するかどうかで、成人にもなっていないのですね。
能力も20歳前に亡くなっていることから、亡くなった時の数値は上の評価よりもう少し低い値になるのだな。
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簡単解説
この中でも軍事が高いのは祖父が曹彰だから、なのでしょうね。
お、段々お主の師匠の思考も読み取れるようになってきたのだな。
それはもう、これまで散々武将評価を見させられていますからね。嫌でもわかっちゃいますよ。
まあ、数値にばらつきはあるのだろうが、それは評価基準がある程度可視化しだした、と言うことでもあるからな。それは決して悪いことではないだろう。
まあ、昨日の曹純みたいにおっとびっくり、こんなところに隠れた名将が、みたいなのもワシは好きなんじゃがな。
とは言え、そんな隠し玉、そうそう発掘できるわけでもないからのう。まあたまに出てきたら楽しんでくれれば良いんじゃよ。さて、それでは今日のところはここまでじゃな。
よし、それでは俺も帰るとするか。
張郃さん、今日はお疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。