三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

曹真(そうしん) 字:子丹(?~231)その2

さて、今回は曹真の続きじゃな。曹氏二世を代表する名将であった彼の逸話について、もう少し掘り下げて見ていくとしようかのう。

 

案内人 

くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。

弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。

張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。 

四方山話 

さて、今回は曹真の続きじゃな。彼についてはもう少し見ていくべき部分があるので、そこを見ていこうかのう。

どうも、張郃だ。具体的にはどの部分から見ていくのだ?  

そうじゃな、少し長くなりそうな北伐関連をまずは見ていこうかのう。思ったより早く終われば他の逸話も見ていきたいのう

北伐と言うと、第一次と第二次の辺りですか。

そうじゃ、特に第二次北伐で諸葛亮の進軍ルートを読み切ったカラクリを見ていこうとしようかのう

人物紹介

北伐のルート考察

さて、北伐ルートについてじゃが、まずは図でおもな北伐ルートを載せていこうかのう。手書きなのでかなりアバウトなのはご容赦くだされ。

北伐ルート

漢中からの進軍ルートで言うと大きく5つのルートがあると言うことですね。

そうだな、それでは第一次北伐で諸葛亮はどう進軍したのかを見ていくとしよう。

第一次北伐進軍ルート(赤線)

さて、第一次は諸葛亮が一番西の関山道を通って祁山攻略、囮となった趙雲は斜谷道を通って郿方面に侵攻した。では弟子殿、次に諸葛亮が北伐をしようと考えた時に、どのルートは使わないか分かるか? 

同じルートは使いたくないでしょうから、一番西の関山ルートは使わないように思います。斜谷道はどうなんでしょう、囮としてしか使っていないことからもしかしたらもう一度使うかも、ないですか?

斜谷道は趙雲が退却した時に、追っ手を防ぐためか、桟道を数十kmに渡って焼いているからな。当分使い物になるまい。そうなると二つは消去できる。

続けて、長安急襲である子午道だが、諸葛亮がここを通って長安を攻めてくると思うか? 

うーん、第一次でも慎重に一番遠い道を選んだ諸葛亮が今更そんなちぐはぐなことをするでしょうか?しかも魏の警戒が緩んでいた第一次北伐前と違って、一度攻めてきていることから、魏は警戒していますよね?

うむ、良い読みだな。もし諸葛亮長安急襲を狙うのであれば魏の警戒が緩く、長安の守備も夏侯楙殿であった第一次の時しかない。既に長安には曹真殿以下の名将が目を光らせている。今更ばくちのようなことはすまいよ。子午道侵攻もこれで消えるな。 

さて、これで残りの侵攻経路は二つになるが、どちらを選択するか、分かるかな? 

うーん、長安に近いと言う意味では駱谷道も魅力に映りますが・・・でもそう言えば駱谷道の先には攻める重要な拠点はないのですか?

良い所に着目したな。この場合駱谷道を抜けた先には大した拠点はない。苦労して山脈を越えた先に防衛の拠点となる地域がなければどうなるか。 

なるほど、補給も受けられませんし、長安から出動してきた軍や、最悪の場合郿と長安から挟撃されて壊滅してしまうかもしれませんね。

そうだ、極力敵は分散させ、こちらは兵力を集中させる。敵の薄く援軍がすぐに駆け付けられないところから攻めるのは基本だ。 

曹真の導いた結論

と言うことで結論として陳倉を攻める可能性が一番高い、と言うことになるであろう。もちろん予測だけではなく、間者を放って情報も集めたうえでの判断だろうがな。 

確かにこうやって、順々に消去法で選択肢を絞っていくと分かり易いですね。

曹真のどすこいエピソード

さて、そんな配下には絶大な人気があり、二世将軍として位人臣を極めた曹真であるがちとお茶目な逸話があるんじゃよ。最後にそのことを少し述べておこうかのう。

魏に呉質と言う人物がおり、彼は文帝のお気に入りの一人だったんじゃ。呉質が黄初五年(224年)、都に参内した時、上将軍と特進以下の官吏に詔勅を下して、全員呉質の宿所に集め、食膳係がご馳走を供したんじゃ。

酒宴たけなわとなって、呉質は楽しみを尽くしたいと思ったんじゃな。

当時上将軍の曹真は肥っており、中領軍の朱鑠は痩せていた。呉質は役者を召し、太っちょと痩せっぽちについて喋らせたんじゃよ。

温厚な曹真もこれには激怒するんじゃが、ここに曹洪や王忠も茶々を入れる始末じゃ。曹真は更に怒った、と言うことじゃな。(魏志『王粲伝』裴注『呉質別伝』)

曹真は恵体だったんですね。でも人柄を表しているように思いますね。

ただ、曹洪殿は恐らくこの話の後のことだが、文帝に逮捕され処刑されそうになったことがあった。この時曹洪殿をさり気に弁護していたのが曹真殿だったりするんだな 

細かい逸話が曹真の聖人ぶりをよく伝えていると思えるのう。

さて、曹真に関してはここまでじゃな。よければ次もご覧くだされい。

 

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