さて、今回は曹尋の紹介じゃな。彼は曹協の子に当たる人物で曹丕の孫となるんじゃよ。曹協も曹尋も知らないと言う人は、結構いるのではなかろうかのう。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は曹尋の紹介じゃな。上でも書いている通り、曹協の息子なんじゃよ。
と言っても曹協自身のことを忘れてる人も多いと思います。私も誰?となりましたもの。過去の紹介記事を張っておきますね。
まあ、この辺りの名前だけと言う皇族もやたら多いからな。ある程度忘れるのは仕方ないだろう。
ワシも実を言うと、紹介し忘れていなかったか、確認を取っているからのう。それだけ膨大だからこそ、こうして記録を残す必要がある訳じゃな。
能力評価
さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。
軍事・統率・知謀・政治
曹尋は魏志『賛哀王協伝』にわずかに記録が載っているんじゃよ。
(賛の哀王曹協の死後)青龍三年(235年)、子の殤王曹尋が後を継いだ。景初三年(239年)、九百戸を加増され、前と合わせて三千戸となった。正始九年(248年)逝去したが、子がなく、国は没収された。(『賛哀王協伝』)
「殤」と言う文字には確か若くして亡くなる」、と言う意味があるのでしたよね。
そうだ、248年に亡くなったと言うことは、逆算していくと230年頃の生まれと言うことになるかな。それより早く生まれると成人に達してしまうし、父の曹協殿は231年には亡くなっていることが分かっているからな。
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簡単解説
彼もまた、他の作品にはさすがに出ていないですね。
皇族は出てこないのがむしろ当たり前のように思えてくるな。むしろ演義に名前だけでも出てくるのは、実はすごいヤツなのかもしれないな。
確かに、何だかんだ前線で体を張ったりしている人物が、演義でも出てきてる訳じゃしのう。さて、そんなところで今回はおしまいじゃな。
よし、それでは今日は帰ろうか。次もまたよろしくな。
張郃さんお疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。