三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

曹尋(そうじん) 字:不明(?~248)

さて、今回は曹尋の紹介じゃな。彼は曹協の子に当たる人物で曹丕の孫となるんじゃよ。曹協も曹尋も知らないと言う人は、結構いるのではなかろうかのう。

 

案内人 

くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。

弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。

張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。 

四方山話 

さて、今回は曹尋の紹介じゃな。上でも書いている通り、曹協の息子なんじゃよ。

と言っても曹協自身のことを忘れてる人も多いと思います。私も誰?となりましたもの。過去の紹介記事を張っておきますね。

 

まあ、この辺りの名前だけと言う皇族もやたら多いからな。ある程度忘れるのは仕方ないだろう。

ワシも実を言うと、紹介し忘れていなかったか、確認を取っているからのう。それだけ膨大だからこそ、こうして記録を残す必要がある訳じゃな。

能力評価 

爺評価(Max.200)
   軍事   統率   知謀   政治 
 曹尋(20歳)  35 25 30 40
 ↓ ↓ ↓ 
 曹尋(45歳)  62 51 57 68

 

さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。

軍事・統率・知謀・政治

曹尋は魏志『賛哀王協伝』にわずかに記録が載っているんじゃよ。

(賛の哀王曹協の死後)青龍三年(235年)、子の殤王曹尋が後を継いだ。景初三年(239年)、九百戸を加増され、前と合わせて三千戸となった。正始九年(248年)逝去したが、子がなく、国は没収された。(『賛哀王協伝』)

「殤」と言う文字には確か若くして亡くなる」、と言う意味があるのでしたよね。 

そうだ、248年に亡くなったと言うことは、逆算していくと230年頃の生まれと言うことになるかな。それより早く生まれると成人に達してしまうし、父の曹協殿は231年には亡くなっていることが分かっているからな。 

 

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簡単解説

彼もまた、他の作品にはさすがに出ていないですね。

皇族は出てこないのがむしろ当たり前のように思えてくるな。むしろ演義に名前だけでも出てくるのは、実はすごいヤツなのかもしれないな。

確かに、何だかんだ前線で体を張ったりしている人物が、演義でも出てきてる訳じゃしのう。さて、そんなところで今回はおしまいじゃな。

よし、それでは今日は帰ろうか。次もまたよろしくな。  

張郃さんお疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。