さて、今回は曹髦の最後の真実について見ていくとしようかのう。史書には書けなかった真実がどのようなものだったか、これを締めとしようかのう。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回曹髦の最後、史書に書かれなかったものが実際どのようなものだったか、見ていこうかのう。
まあ、あれは正史には書けないな、書けば大きな傷が付く。
やはり晋の時代に書かれたものだから、そこは憚られるんですかね。
そうじゃな、それでは実情を見て、終わるとしようか。
人物紹介
曹髦最後の記録
帝(曹髦)は権力が日に(王家から)離れていくのを見て、怒りに堪えなかった。そこで侍中の王沈、尚書の王経、散騎常侍の王業を召し寄せて言った。
「司馬昭の本心は、道行く人でも知っている。私はこのまま坐して退位の恥辱を受けることはできない。今日こそ諸君と共に自分の方から出撃して、彼を討ち取るべきだ。」
王経達はこれを何とか止めようとするも、帝は
「事はすでに決しているのだ。これで死んだとしても何を恐れることがあるものか。ましてや必ず死ぬと決まっていようか。」
その後、皇太后の宮殿に参内して次第を申し上げた。
王沈と王業は大急ぎで司馬文王(司馬昭)の下にかけ参じて報告したため、司馬文王はこれに対する備えを行った。
帝はかくして数百人の下僕を率い、軍鼓を打ち鳴らして出撃した。司馬文王の弟の屯綺校尉の司馬伷は宮中に突入し、ちょうど東の止車門のところで、帝と出くわしたが、帝の供回りの者が彼を大声でしかりつけたため、司馬伷の軍勢は大慌てで逃げ出した。
中護軍の賈充がまた南闕のもとで帝を迎え撃って戦ったところ、帝自ら剣を振るって立ち向かった。
賈充の軍勢が退却しようとしたため、太子舎人の成済が賈充に
「事態は切迫しております。どうしたら良いでしょう。」
と言った。賈充は答えた。
「お前たちに食い扶持を与えてきたのは、まさしく今日のためである。今日のことは(後から)問題にはしない。」
成済はすぐに進み出て帝を刺殺した。
(『高貴郷公紀』裴注『漢晋春秋』)
他の記録も紹介されていたが、細かな違いはあるものの、内容の差は見られないな。
と言うことは上の内容は真実・・・?
とは限らんのじゃな。ある史書で創作した内容をそっくり写している場合もある。とは言えあまりにも不自然な最期であるだけに、こちらの内容の方が史書より真実に近い、とは思うぞ。
まあ、この辺りはこの後も胸糞の悪い展開が続くんじゃがな。とは言えそれはまたの機会としようかのう。さて、それでは曹髦の紹介は終わりじゃな。ながのお付き合いありがとうございますじゃ。
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