さて、今回匈奴の南単于であった呼廚泉の紹介じゃな。単于は遊牧民族たちの君主を指す言葉として使われているのは過去何度か話しているかのう。匈奴は後漢の頃は南北二つに分かれ、呼廚泉は南匈奴の王と言うことじゃな。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は呼廚泉の紹介じゃな。去卑のところでも出てきたが、元々去卑の主君筋に当たる人物じゃ。
どうも、張郃だ。呼廚泉率いる南匈奴はこの頃すっかりおとなしくなっており、漢魏には従順な立場であったな。
呼廚泉は何か目立つエピソードなどはあるのでしょうか。
匈奴自体がこの頃は少し落ち込んでいた時代じゃからのう。呼廚泉も所々に名前が出てくるのみじゃな。
能力評価
さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。
軍事・統率・知謀・政治
呼廚泉についての記述は『武帝紀』『文帝伝』『烏丸伝』にあるようじゃのう。
建安二十一年(216年)秋七月、匈奴の南単于呼廚泉がその配下の名王を引き連れ来朝した。賓客の礼をもって待遇し、そのまま魏に引き留め、右賢王の去卑にその国(元々呼廚泉が治めていた国)を取り仕切らせた。(『武帝紀』)
彼らは長城内部に入って命をつなぎつつ中国の藩国と称し、時代が下るに従って衰勢に向かった。建安年間(196ー220年)に南単于の呼廚泉が入朝した時、そのまま宮廷に留めて仕えさせ、右賢王にその国の治安を司らせた。しかるに匈奴はこうしたやり方に難の反抗も示さず、下手に出ることは漢代の昔以上であった。(『烏丸伝』)
黄初元年(220年)、改めて匈奴の南単于呼廚泉魏に璽綬を授け、青蓋車・乗輿・宝剣・王玦(一ヶ所が切れている環状の玉)を賜与した。(『文帝紀』)
これで行くと216年から249年の間に亡くなったと言うことですね。
そうだな、よく国を抑えていた、と言うことだな。統率も高めなのはその辺りを評価して、と言うことなのだろう。
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簡単解説
あら、去卑が出ていた鄭門三国志に呼廚泉は出ていないのですね、意外です。
親分格の方が出ていないと言うのは確かに珍しいな。まだ天舞三国志のようにどちらも出ていない方が理解できる。
この辺りの取捨選択にどんな意図があるのか興味深いのう。呼廚泉は単于であることから、軍事よりも統率の方おより高めとしておいたんじゃ。さて、呼廚泉の紹介はここまでじゃな。良ければ次もまたよろしく頼むぞい。
よし、それでは俺も帰るとするか。
張郃さん、今日はお疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。