三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

劉豹(りゅうほう) 字:不明(?~279?)

さて、今回は劉豹の紹介じゃな。彼もまた劉姓を冠する匈奴の王の一人じゃな。彼は於夫羅の子を称し、またある人物との縁もあるのでは、と言われた人物なんじゃよ。

 

案内人 

くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。

弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。

張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。 

四方山話 

さて、今回は劉豹の紹介じゃな。彼も劉姓を冠するのじゃが、れっきとした異民族の王なんじゃよ。

劉姓を名乗っている理由は、先日の劉靖と同じと言うことですよね?

そうだな、それから劉豹は後に前趙を立ち上げる劉淵の父でもある。それとある人物とも関係があるのでは、と言われているが、それはまたあとで語るとしよう。 

それでは劉豹について見ていくとしようかのう。

能力評価 

爺評価(Max.200)
   軍事   統率   知謀   政治 
 劉豹(20歳)  100 70 50 60
 ↓ ↓ ↓  ↓↓
 劉豹(45歳)  134 101 79 90

 

さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。

軍事・統率・知謀・政治

劉豹については『鄧艾伝』に記述があるんじゃよ。

嘉平元年(249年)、この当時、幷州にいた匈奴の右賢王劉豹が民衆を合わせて匈奴五部族の一部族として存在していた。鄧艾は上奏文をたてまつって述べた。

「蛮族は野獣の心を持っていて、道義によってなつかせることができません。強い時は侵略を働き、弱い時は内属します。

~中略~

今、国境内にいる単于の権威は日に日に下がってゆき、外地にいる異民族の威光が次第に重みを増しておりますれば、蛮族に対して十分に備えをしなければいけません。

聞けば劉豹の部族に反乱がおこったとか。反乱に付け込んで二国に分割して、その勢力を割くべきかと存じます。

去卑は前代(武帝時代)に顕著な功績を挙げながら、その子は残した功業を引き継いでおりません。どうかその子に高い称号を与えまして雁門に住まわせてくださいますように。匈奴を二国に分けて侵略者の力を弱め、昔の勲功に対して遡って恩賞を取らすこと、それは国境地帯を統御するための長期的戦略であります。」(『鄧艾伝』)

これは去卑のところと同じ記述ですよね。他に記録はないのですか? 

うむ、これは『Wikipedia』に載っている情報だが、『後漢書』の方に、蔡文姫が匈奴の左賢王(劉豹?)の妾になった、と言う記録があるのだ。

ただ、劉豹が於夫羅の息子であった保証はなく、『後漢書』に記述されている左賢王が劉豹自身を指しているかも不明なのだ。

於夫羅は196年頃には亡くなっているようで、劉豹は279年頃亡くなっているようだが、於夫羅の息子だとすると、何年に生まれて、亡くなった時は何歳なのだ?しかも息子の劉淵は250年頃の生まれなのだぞ。 

210~220年頃の生まれでもおかしくなさそうですね。確かに於夫羅の息子と言うには少し活躍期間がずれているように思えますね。 

三国志14(Max.100)
   統率   武力   知力   政治   魅力 
 劉豹  63 60 51 62 64

 

天舞~三国志正史~(Max.16)
   武勇   采配   策謀   政治   外交   人徳 
 劉豹  8 9 4 5 3 8

 

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簡単解説

三国志14も天舞三国志もそれなりの高い評価なのですね。

劉淵の父と言うことで、劉豹自身も結構評価されているようですね。  

劉豹が於夫羅の息子と言うのはわしもちと疑問を感じているんじゃが、もしかすると劉淵には蔡文姫の血が流れている、と言うことで無理やり劉豹と蔡文姫を絡めようとしたのかもしれん。さて、それでは今回はここまでじゃな。

よし、それでは俺も帰るとするか。  

張郃さん、今日はお疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。