さて、今回は崔州平の紹介じゃな。彼は西河太守であった、崔鈞および崔均の弟であるようなんじゃな。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は崔州平の紹介じゃな。崔鈞や崔均の弟、と言うよりも諸葛亮の友人、と言った方がわかる人は多いのではなかろうか。
崔鈞も崔均もどんな人物だったか、覚えていない人もいるでしょうから、そちらの情報も載せておきましょうか。
演義でも出てくるから崔州平のことを知っている人物は結構いるであろう。だが史実における彼を知る人物は少ないかもしれないな。
そうじゃな。それでは崔州平について見ていくとしようかのう。
能力評価
さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。
軍事・統率・知謀・政治
崔州平は蜀書の方に記録がいくつか載っているようじゃな。
諸葛亮は常に自分を管仲(春秋時代、斉の宰相)、楽毅(戦国時代、燕の名将)に擬していたが、当時の人で、これを認める者はいなかった。ただ博陵の崔州平と潁川の徐庶字は元直の二人は、諸葛亮と親交を結んでいて、まことにその通りだと認めていた。(『諸葛亮伝』)
崔州平は太尉崔烈の子であり、崔均の弟である。(『諸葛亮伝』裴注『崔氏譜』)
諸葛亮は後年丞相になった時、部下の役人たちに命令を与えた。
「そもそも職務に携わる者は、人々の意見を求めて参考にし、主君の利益を上げるように。もしもわずかな不満によって人を遠ざけ、自分と意見の違う者を非難して検討し直すことを厭うならば、仕事に欠陥を生じ損失を招くであろう。
~中略~
私は昔、初めは崔州平と付き合い、しばしば欠点を指摘され、後には徐元直と付き合い、何度も教示を受けた。
~中略~
私の性質は暗愚であり、全てを受け入れることはできなかったけれども、しかしながらこの四人とは終始気があった。これもやはり彼らの直言をためらわない態度を証明するものである。」(『董和伝』)
これは去卑のところと同じ記述ですよね。他に記録はないのですか?
うむ、これは『Wikipedia』に載っている情報だが、『後漢書』の方に、蔡文姫が匈奴の左賢王(劉豹?)の妾になった、と言う記録があるのだ。
ただ、劉豹が於夫羅の息子であった保証はなく、『後漢書』に記述されている左賢王が劉豹自身を指しているかも不明なのだ。
於夫羅は196年頃には亡くなっているようで、劉豹は279年頃亡くなっているようだが、於夫羅の息子だとすると、何年に生まれて、亡くなった時は何歳なのだ?しかも息子の劉淵は250年頃の生まれなのだぞ。
210~220年頃の生まれでもおかしくなさそうですね。確かに於夫羅の息子と言うには少し活躍期間がずれているように思えますね。
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簡単解説
三国志14も天舞三国志も似たような評価ですね。一方の師匠は知謀の方が高めなんですね。
学者や仕官していない名士はどちらかと言えば知謀を高くする傾向が見て取れるからな。だから知謀の方が高いのであろう。
そうじゃな、やはり政治は政治家としての実績を第一と考えているから、ワシの評価はこんな感じになったんじゃよ。さて、それでは今回はここまでじゃな。
よし、それでは俺も帰るとするか。
張郃さん、今日はお疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。