今回は王愷の紹介じゃな。彼もまた王朗の孫、王粛の息子になる訳じゃな。さて、王愷に関してはどのような記録が残っているか。早速見ていくとしようかのう。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は王朗の孫の王愷じゃな。王惲の弟に当たる人物じゃな。
王粛殿の息子は8人いた、とのことだ。王惲殿は長男であったのだろうから名前は当然残ったのじゃが、8人全員の名前は分かってはいないようだな。
逆に言うとここで名前が出ていると言うことは実績がある、と言うことですね。
王惲殿は長男だから名前が残ったのであろうがな。
うむ、それでは早速王愷について見ていくとしようかのう。
能力評価
さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。
軍事・統率・知謀・政治
王愷に関する記録もまた『王朗伝』に載っているようじゃな。
王惲の兄弟は八人あったが、その内出世した者は二人である。
王愷は字を君夫と言い、若い頃から才能力量があったが品行が良くなかった。衛尉の石崇と仲が良く、共に世間に豪奢を競い合い、後将軍の位で終わった。(『王朗伝』裴注『晋諸公賛』)
豪奢を競ったって、ちょっと変わった性格の方のようですね。
品行が良くなかったとあることから、お主らの国の戦国時代に見られた婆娑羅大名や傾奇者のような人物だったのかもしれないな。
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簡単解説
軍事と統率が高いのは学者の家系とは思えない評価ですよね?
一族の中では異端であるからこそ、知謀や政治ではなく、軍事や統率を高くした、と言うことか、役職も後将軍、と言うことだからな。
そう言うことじゃな、実績が見えないことから、軍事統率も突出して高い訳ではないが、王一族の中では頼りになる武官じゃな。そんなところで王愷の紹介は終わりじゃな。次もよろしく頼むぞい。
よし、それでは自分も帰るとしよう、次もよろしくな。
張郃さん、今日はお疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。