三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

王粛(おうしゅく) 字:子雍(195~256)その2

さて、今回は王粛の紹介、続きじゃな。今回は王粛のちょっとした逸話について見ていくとしようかのう。

 

案内人 

くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。

弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。

張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。 

四方山話 

さて、今回は王粛の内容について、前回記述していない部分を見ていくとしようかのう

どうも、張郃だ。王粛殿の政治にかかわる詳細を載せていくと言うことだな。 

前回でも結構記述がありましたが、それ以上にあると言うことですか?

そうじゃな、全てを書くと冗長になるから、一部を切り取っていく感じにするが、それでもなかなかのボリュームになるぞい。

人物紹介 

曹真の蜀征討

太和四年(230年)、大司馬の曹真が蜀を征討した時、王粛は上奏して述べた。

「昔の書物にこう書いています『千里彼方から兵糧を輸送すれば兵卒に飢餓の様子が見える。薪や枯れ木を集めてから飯を炊けば、軍隊は満腹感は味わえぬ。』と。

ここで申しているのは平坦な道を行軍する場合の事です。それを険阻の地に深く入り込み、道路を切り開いて進軍するとならば、その苦労たるや必ず百倍されましょう。

今、それに加えるに長雨があり、山や坂は険しい上に滑ります。軍勢が迫っても進めず、兵糧は遠くから送るので続きにくく、まことに行軍する者にとって大きなタブーです。

聞けば曹真は出発してからすでに一か月を超えておりますが、行軍したのは子午谷のわずか半分、道路工事には兵士の全てが参加しているとのこと。

これでは賊にとってひたすら安逸な状態におりながら、わが軍の疲労を待っていれば良い訳で、それこそ兵法家のはばかることです。この事を前の時代で申せば、周の武王が殷の紂王を討伐し、関所を出てまた引き返したことで、このことを近い例で論ずれば、武帝・文帝が孫権を征伐され揚子江を前にして渡らなかったことであります。

上の例はいわゆる天の意志に従い、時の変化を知り、臨機応変の方策に通じているものではないでしょうか。~後略~」

この結果、撤退した。(『王朗伝』)

あ、この遠征って張郃さんも参加していた戦いですよね。 

そうだな、この時は曹真殿のところが長雨で進めなかった、と言う情報が流れ、こちらも身動きが取れなかったのだ。

王粛殿の判断と提言は残念ながら至極妥当、と言わざるを得ないな。 

政治とは

幾つかの上奏の後、王粛は次のことを上奏した。

「仕事のない官位を除き、緊急でない俸禄を抑え、何かにかこつけた会食の費用を廃止し、閑な官職を合併なされますように。

官職には必ず職務が伴うとなれば、職務としてその仕事に専念し、仕事に対して必ず受けられるとなれば、俸禄は農耕による収入の代わりとなります。

それは過去における不変のおきてであり、当今にも当てはまることでございます。官職が少なくて俸禄が厚ければ、朝廷の出費は少なくて済み、厚禄に引かれた人々の出仕の気持ちを引き起こすことになり、各人が才能と力量を働かせ、互いに頼り合うことはありません。

仕事の内容を言葉によって奏上させ、奏上通りであるか仕事をはっきり調べます。能力があるかどうか、選択は御心のままです。

~中略~

周代の制度は完備しております。五日ごとに政治を取られ、公卿大夫たちはいずれも出仕し、司士がその官位を区別しました。

~中略~

前漢中興の祖)宣帝は公卿に五日に一度参内させ、成帝ははじめて尚書五人を設置しました。これ以後衰微していき、朝廷の儀礼も結局失われました。

五日ごとに政治を執られる規則、公卿尚書にそれぞれ報告命令の授受のため、参内させるべきです。すたれた儀礼を復興し、優れた事業を輝きわたらせますれば、まことにいわゆる名義は立派であって、実質は充実していることになりましょう。」(『王朗伝』)

この意見がどこまで取り入れられたかは覚えていないが、夏侯玄殿の意見にも通じる合理的な思考の持ち主と言えよう。 

たしかに自分達の懐だけが潤うような考え方の人たちとは、ちょっと違う意見ですね。

王粛殿の凄いのはただ単に古代の制度が何でも最上とは考えず、古代の制度の中で現代に取り入れた方が良いものを選び、言上している点だな。 

新の王莽とかはとにかく古代の制度が最上と考え、あれもこれもとやっていたら国民が誰もついてこなくなってしまったからのう。 

このように市井の学者であった鄭玄とは違い、魏と言う国家の中で古代の制度をうまく取り入れる方向で、王粛は非常に大きな力を発揮した人物と言えるんじゃよ。

だからこその政治力の高さ、という訳じゃな。さて、そんなところで王粛の紹介は終わりじゃな。興味のある方はもう少し王粛を掘り下げてみてみると良いかもしれんぞい。

 

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