有名な建安七子の一人じゃ。元々は何進、そして袁紹の下に仕えた後、色々あって曹操に仕えることになるんじゃよ。
ほっほっほ、どうもくまの爺ですじゃ。さて、今回は陳琳じゃな。
陳琳は吉川三国志とかでちょっと出てた方ですね。建安の七子とは何でしょうか?
うむ、彼は文章家として名を馳せた人物じゃな。建安の七子とは後漢末に出現した孔融、王粲、陳琳などが形成した文学サロンなんじゃよ。
彼等は己の志や世の悲哀等を言葉に載せ、四言詩や五言詩を作成していったんじゃ。四言詩は一行四文字、五言詩は一行五文字で形成されるんじゃ。
四文字と五文字では何か違ってくるんですか?
うむ、四言詩はそれまで民間等で良く使われていたものなんじゃ。五言詩も一部では詠われておったんじゃが、そこまでメジャーではなかった。
じゃが曹操は一文字加えることで詩に奥行きができると考え、積極的に五言詩を取り込んで創作していったんじゃ。
たった一文字でそんなに変わるものなのですか?
うむ、正直漢詩はワシそこまで詳しくないから分からんぞい。まあ興味があれば『詳講 漢詩入門(佐藤保著 ちくま学芸文庫)』等があるから読んでみると良いかもしれんのう。
師匠は読まれて理解できたんですか?
うむ、韻やら対やら難しくてのう、ワシに漢詩を作るのは無理!と言うことは分かったぞい。まあワシは下手くそな川柳ぐらいが関の山じゃてw
うーん、まだちょっと違いがピンとこないですね。
そうじゃなあ、四言詩と五言詩の違いは説明が難しいが、建安以前と以後の違いぐらいは言えるぞい。
それはどんな違いになるんでしょうか。
日本で言うと歌舞伎じゃな、戦国末期に「お国」と言う女性によって創始された歌舞伎じゃが、初期の頃のかぶき踊りとかは民間で遊女がやるものや、軽業師がアクロバティックな技を見せるなど種々雑多なものじゃった。
それが演劇として大きく発展し、現在に繋がる歌舞伎の基礎が出来上がったのが元禄期じゃろうか。この時期に初代市川團十郎とかが出てくるんじゃが、曹操は文学界における團十郎のような存在と言えば、何となくイメージできるかのう。
それだったら分かります。そう考えると確かに曹操が文学界に及ぼした影響力は凄いですね。
そうじゃな、そんな中でスターの一人として活躍した人物が陳琳と言うことじゃよ。
さてあまり長くなっても仕方ないので、人物紹介に行くぞい。
人物紹介
陳琳の意外な交友関係
陳琳は広陵郡広陵の人物と言うことから、同郷として張昭や張紘と親睦があったようじゃな。特に張紘とはそれぞれの賦等に関して互いに称賛する等、親しく書簡のやり取りをやっておったようじゃ。
敵味方に分かれているとは言え、個人レベルでの付き合いと言うのはこの時代結構あったんじゃな。
何進そして袁紹の下で
さて陳琳は最初何進の主簿となったんじゃ。何進は四方の猛将を召し寄せ、それで太后(何進の妹)を脅迫しようと考えたんじゃ。
陳琳は「今、都を掌握していると言う武器を捨てて諸侯を呼び寄せると、強いものが指導者となります。功業は決して成らず、動乱のきっかけとなるだけです」と諫めるんじゃが何進は聞かずに結局暗殺されるんじゃな。陳琳は冀州に逃れ、袁紹の下で文章を司るようになるんじゃ。
臧洪が袁紹と敵対した時に、陳琳はことの利害を説明して教え諭そうとしたんじゃ。じゃが臧洪は完全に拒絶しておったので、最初から答える気はなかったんじゃろうな。
文章家としての才能
ちなみにその中で臧洪は陳琳のことを「あなたは優れた才能をもち、広く典籍(書物)を極めておられるのだから、大道理が分からず、私の意向を明察なさらぬはずがないでしょう」と言っておるんじゃ。敵対している身ではあるものの陳琳の才能をしっかり評価しているんじゃな。
また公孫瓚が息子の公孫続に救援要請のための手紙を送ろうとした時じゃ、その手紙を袁紹の斥候が入手した時には陳琳がその手紙を書き直して逆利用してるんじゃよ。
『魏氏春秋』には官渡の前に袁紹が檄文を起こし、曹操の非道さを書き連ねておるが、この檄文を書いたのが陳琳じゃったんじゃな。内容は罵詈雑言の酷いものであるが、文章そのものは優れたものだったんじゃよ。
また文章とは関係ないが、崔琰が袁尚と袁譚どちらにも仕えず牢獄に捕らわれた時、陰夔と陳琳が除名運動したことで助かったんじゃよ。
曹操への降伏
曹操が鄴を包囲している時、これを救おうと袁尚は軍を率いてくるんじゃが、曹操に打ち破られるんじゃ。そのまま曹操は袁尚の陣営を包囲しようとしたので、袁尚は恐怖し、陰夔と陳琳を使者として降伏を乞うたが、曹操はそれを拒絶したんじゃ。
袁尚は逃げ出したんじゃが、恐らくこの時に陳琳は曹操に降伏したのだと思うのじゃ。
曹操は陳琳を前に「本初(袁紹)のために檄文を書いた時、ただわしの罪状だけあげつらっておけば良かったものを。悪を憎んでも当人だけに止めておくべきじゃ。どうしてそれをさかのぼって、父や祖父まで引き合いに出したのじゃ」と責めたんじゃ。
陳琳は素直に謝罪すると、曹操もそれ以上追求せず、彼の文章の才能を愛していたので許したんじゃよ。曹操の器の大きさが分かる話じゃのう。
曹魏でのエピソード
『典略』では陳琳は種々の文書と檄文を書いたんじゃ。当時曹操は慢性的な頭痛に苦しんでおったようじゃが、ある時、頭痛によって伏せておった曹操が、陳琳の草稿を見るとすっくと起き上がり「こいつはわしの頭痛を直したぞ」と喜んで言ったんじゃ。慢性的な曹操の頭痛を一瞬で直すとは、陳琳恐るべきじゃのう。
じゃがこんな話もある。同じく『典略』で曹植は楊脩に宛てた手紙で、陳琳の才能を認めながら「辞賦には熟達しておらず、うぬぼれから自分では司馬相如と同じ風格があると思い込んでいるが、虎の絵を描こうとしたが上手くいかず犬の絵になってしまうようなもの」と評しておるんじゃ。
そして楊脩も曹植に返書しておるんじゃが、そこで曹植の書く文章は王粲や陳琳をも上回る、と評しておるんじゃな。曹植の才能がどれだけ深いのか、恐ろしいほどじゃな。
また曹丕も建安七子の評を残しておるが、陳琳の文章は雄健であるが、少し煩雑である、と評しておるな。
曹操と息子二人は見る視点が少し違うところが面白いのう。
そんな陳琳じゃが217年、呉の征伐に随行した折に大流行した疫病にかかり、帰らぬ人となったんじゃ。惜しいのう。
と言ったところで、能力評価じゃな。今回は3作品共に出ておるぞい。
能力評価
陳琳は何進に董卓を呼び寄せることの危険性を認識し、諫めたりしていることから知謀が高めじゃ。他にも曹操を煽る檄文とかを書いたりできることからもその優秀さがうかがえると言うもんじゃ。
また檄文や文書を書けると言うことは、政治的判断もそれなりの高いと判断して、そちらも高めの評価としておるんじゃ。
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雑談ぢゃ
さて、陳琳の能力評価じゃな。
師匠と他のとは明確に違いがありますね。師匠は知謀が高くてその次が政治ですが、他は皆政治が高くて知謀は少し低めですね。
うむ、そうじゃのう、彼の流麗な文章を作成する能力を知力として評価するか、政治として評価するか、で違いが出るんじゃろう。
ワシは知謀でその辺りは評価しているんじゃ。
何故知謀なのでしょうか?
うむ、建安の七子の面子を見ると孔融を筆頭に曲者が多くてのう、頭は良いんじゃろうが、実務ではあまり実績を残せておらん面々が多いんじゃよ。
陳琳もその才故に曹操を非難する檄文を書いて、寿命が縮まりかけておるし、政治よりは知謀の方が勝っているとワシは思うんじゃよ。
うーん、なるほど、この辺りは他の建安の七子が出てきた時に比較していきたいですね。
そうじゃな、さて、ちと長くなったので今回はここまでじゃな。次もまたよろしく頼むぞい。
次も見てくださいね、それではまた!