三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

雑談回その8

さて、それではサクラスターオータマモクロスの伝説の始まりじゃな

 

雑談ぢゃ

さて、弟子よ、今日一日で終わらせるぞい。

当たり前です!それでどう言う説明を行うのでしょうか。

うむ、実はこの二人の競争履歴を見ていくと、結構面白いシンクロをしておってのう。そこで時系列を並べようと思うんじゃ。本来二人の絡みはほとんどないんじゃが、ウマ娘風にもしこの二人が知り合い、しかも親友だったとしたら、と言う条件だけを付けて説明していくぞい。

なかなか師匠、軽く気持ち悪いことをやりますねw

そう言うでない。現実で二頭に直接の絡みはなくとも、もしこの二頭が一緒に走ったら、と言うのは当時結構語られた話でもあるんじゃよ。じゃからレース自体の内容や日程は忠実に、ウマ娘の心情部分だけはワシの勝手な憶測で書かせてもらうぞい。

わかりました、ここまで来たらもう覚悟決めましたよ。よろしくお願いします。

ウマ娘二人

さて、この二頭じゃが、どちらもなかなかのドラマを持ったウマ娘達じゃな。

生まれてから入厩まで

まずスターオーは生まれてすぐ、二か月後に母親が亡くなっておるんじゃよ。母が倒れた時、スターオーは懸命に母の体を起こそうとしておった、と言う話じゃ。

しかもこの時期、スターオーはまだ乳離れしていない時期だったらしいんじゃ。別のウマ娘の母から乳を得たりもしておったようじゃが、他のウマ娘よりも早くに離乳しておったというんじゃよ。

一方のタマモも生まれ故郷での生活は、借金などもあり、相当厳しいものがあったようじゃな。じゃがタマモが本当に大変なのはもう少し後じゃな。まあ何とか二頭とも才能を見込まれ、トレセン学園(中央競馬)に入ることができたんじゃよ。

二頭ともトレーニングを積んでいくが、タマモは食も細く繊細でなかなか仕上がらない。ここでも早くにレースに出るようになったのはサクラスターオーの方じゃ。

現在の表記で言うと二歳になるが、二歳の秋口からスターオーは走り出すんじゃよ。

レースへの出走

1986年10月5日 サクラスターオー 新馬戦 2着
1986年10月18日 サクラスターオー 新馬戦 1着

10月5日の新馬戦こそ不覚を取り2着だったスターオーだが、10月18日では外からまくり気味に進出し、直線で一気に先頭に躍り出ると、力強い走りで後続を寄せ付けず見事に勝利するんじゃ。

じゃがこの後脚部不安があって年内はもう走れんかった。

一方のタマモも体質が弱く、食も細くてなかなかレースに出れる状態にならんかった。二人は互いを励まし合い、次の年の飛躍を誓い合うんじゃよ。

1987年2月21日 サクラスターオー 寒梅賞(400万下)5着

約四ヶ月ぶりのレースと言うことで道中の追想がちぐはぐになってしまうが、それでも最後5着に押し上げ、底力を見せたスターオー。これを見たトレーナーは三冠レースに出るため、条件馬の身でありながら弥生賞を走らせることに決定する。

そして弥生賞の1週間前に、ついにタマモもレースが決まる。

お互いを激励し合うスターオーとタマモ、しかし明暗は分かれる

1987年3月1日 タマモクロス 新馬戦 7着

初めてのレースと言うことで意気込みすぎたのか、いきなり先頭に立って逃げを打ってしまったタマモ。しかしペース配分も何もできていない状態であったし、何より本来ならレースで走れるほどスタミナがあった訳でもなく、直線で沈み7着。

落ち込むタマモをスターオーは励ます。

タマちゃんは初めてのレースだから、私の寒梅賞の時みたいにちぐはぐになっただけ。大丈夫きっとすぐに勝てるよ。

1987年3月9日 サクラスターオー 弥生賞(GII)1着

弥生賞に出走したサクラスターオーは、道中はじっくり中団で足をため、最終コーナーから徐々に進出して先頭集団に取り付き、直線で気合を入れると、逃げるウマ娘を見事差し切るというお手本のような勝利を収め、クラシック戦線に名乗りを挙げる。

これを見て触発されたか、タマモクロスも試行錯誤をしながら3戦目でようやく勝利を収める。

1987年3月21日 タマモクロス 新馬戦 4着
1987年4月11日 タマモクロス 新馬戦 1着

タマモの勝利を祝うスターオー、しかしそうのんきなことも言っていられない。スターオーは次の週、皐月賞なのだ。

自分のことは良いから、スターちゃんは自分のことに集中してね。大レースを控えてるんだから・・・。

と気遣うタマモに、

今日勝ってくれたことは私に自信を与えてくれた、だから次は絶対負けない。

とスターオーは力強く答えるんじゃ。

1987年4月20日 サクラスターオー 皐月賞(GI)1着

皐月賞のスターオーはまさに横綱相撲と言うにふさわしい堂々とした走りじゃった。最後直線に入るまではまだ中団やや後ろ辺りにおったのじゃが、そこから一人だけ他と違う走りで一気に抜け出し堂々の一冠達成。レース後に彼女は指を一本高々と掲げるんじゃ。これは皐月賞、ダービー、菊花賞の三冠全部取る、と言う意気込みの表れじゃな。

タマモは祝福しながらも、三冠レースの争いにまるで加われていない自分に、もどかしさも感じるんじゃよ。そしてこの後二頭ともに悲劇が訪れるんじゃ。

1987年5月10日 タマモクロス 400万下 -着

まずはタマモクロスじゃな。5月10日に新馬戦以来久しぶりとなる芝を走ることとなったんじゃ。元々芝で良い走りをしておったから、もう一度芝を試してみよう、と言うトレーナーの判断じゃな。

じゃがこのレースで事故が起きる。前のウマ娘がパンク(怪我)をして倒れこみ、そこにタマモも突っ込んでしまい、リタイアになってしまうんじゃよ。

幸い大きな怪我はなかったものの、これ以降しばらく彼女はウマ込みを怖がって入り込めなくなり、レースもぽつんとウマ込みから離れたところを追走するだけだったんじゃ。

そしてサクラスターオーの方じゃが、こっちはもっと深刻だったんじゃ。半月後にダービーを控えた5月半ばに足元に怪我をしてしまうんじゃ。

彼女の怪我はかなり深刻な状態で、全治4か月、ダービーはおろか、菊花賞も出れるかわからない、と言う状態だったんじゃな。

  

こうして失意の春を二人は過ごすんじゃな。と言ったところで結構文字数が増えてしまったので。いったん切るとしようかの。