さて、今回紹介するのは徐揖じゃな。字や生没年は不明。実は191年の時代にはまだこの地域におらんかったかもしれんが、昔の自分が作ったデータの不完全さを表す話じゃな、そのまま紹介することご容赦くだされい。
さて、今回は徐揖の人物紹介じゃな。
どうも、張郃だ。本当は彼がこの地域にいるのは200年代であろうな。
幷州の張陟と同じようなパターンですね。辺境でこういう人物が出てくるのが多いですね。
そうじゃな、まあ辺境に関しては多少無理にでも人を入れておかないとスカスカになるからのう。
演義には当然出てこない人物ですよね、早速ですが紹介をお願いします。
人物紹介
さて徐揖じゃが、彼の出番はそう多くないんじゃよ。
魏書『閻温伝』の裴注、『魏略』の「勇侠伝」によると、建安年間に至り、酒泉太守の徐揖は、郡中の豪族黄氏一族を処刑した、とあるんじゃ。
恐らく豪族の横暴に対して太守が権限を行使して、黄一族を族滅しようとしたんじゃと思えるんじゃ。その理由は後で述べるぞい。
さて、この黄氏一族で黄昂と言う人物がおったんじゃが、彼は何とか脱出してこの難を逃れたんじゃよ。
彼は家の穀物や金数石を用いて人を集め、千余人を手に入れ、徐揖を攻撃したんじゃ。この時、楊豊と言う義侠心に厚い人物がおったんじゃが、彼はこの黄昂の行為を道義にもとると考え、徐揖に話をし、妻子をそのままに張掖まで駆け付け救援を要請したんじゃよ。
なるほど、揚豊が徐揖の処刑を正と見、黄昂の行為を非としたことから、黄一族はかなり手酷いことをやっておったように思えるな。
そうじゃな、後、もう一人魏の名臣の龐淯も徐揖の主簿として仕え、黄昂の攻撃の時は張掖・敦煌に危急を知らせ、剣に身を伏せて自殺しようとまでして説得したことで、二郡とも兵の出動をきめたんじゃ。
結局この援軍は間に合わず、徐揖は殺害されるんじゃが、龐淯は彼の遺体を引き取って本籍の郡に送り、三年の喪に服したんじゃよ。彼にここまでさせる人物と言うのもなかなかいないであろう。
さて、徐揖の人物紹介はここまでじゃな。続けて能力評価と行こうかの。彼はワシの評価のみじゃな。
能力評価
徐揖は太守で恐らく、横暴を働いていたであろう黄氏を処刑しておることから、太守としての役割を全うに果たしておったことから、政治能力はそこそこの評価としたんじゃ。
また揚豊や龐淯と言った人物が彼に対して義侠心を示していることから、統率を一番高く評価したんじゃ。じゃが実績が少ないため、総合的な評価は少し抑えめとしたんじゃよ。
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雑談ぢゃ
さて、徐揖の能力評価じゃな。
ふむ、韓遂を小粒にしたような評価と行ったところか?
上記の内容を見ると、成公英のように徐揖に心服してくれる優秀な人材がいる、と言うのは評価が高いですね。
そうじゃな。目立つ実績はないがやったことが正しい行い、と判断されているのは少しポイントが高いのではなかろうか。
辺境の地故に苦労しておった、と言う感じだな。豪族の横暴によって、苦労するのはどこも同じだな。
そうじゃな、まあ191年はまだここにいなかったかもしれんが、埋もれさせるのは惜しい人物、と言うことで載せさせてもらったんじゃよ。さて、今回はここまでじゃが、徐揖の人物像、如何じゃったかな。良ければ次もまたご覧くだされ。
よし、それでは俺も帰るか、次もよろしく頼む。
張郃さん、お疲れさまでした。次もよろしくお願いします。他の人物に興味ある方は、下の索引からご覧くださいね。