さて、今回紹介する人物は桓階じゃな。字が伯諸で生没年は不明。後に魏に仕えた名臣なんじゃ。じゃがこの時代は孫堅に仕えていた、と言う少し変わった経歴の人物じゃな。
さて、今回は魏の名臣、桓階の紹介じゃな。
どうも、張郃だ。ここで桓階殿か、だが実はあれだな、この時期は親が亡くなったことで喪に服していた時期だったような気が・・・・。
張郃さん、ストップストップ、それ以上は師匠の心が持ちませんw
なんじゃそう言いながら、語尾の「w」は、全くその程度で今更心が折れたりはせんよ。まあ微妙な時期じゃが、孫堅に仕えておったのは確かじゃし、ちょっと変わった経歴の人物じゃからな。それでは見ていくとしようかのう。
人物紹介
孫堅時代の桓階
さて、桓階じゃが、彼は長沙郡の出身じゃな。つまり長沙に孫堅が赴任してきたことで使えることとなった訳じゃ。
孫堅は彼を非常に高く評価し、桓階を孝廉に推挙し、尚書郎に任命したんじゃが、桓階が父の死にあって故郷に帰り、喪に服している間に、孫堅は劉表との戦いで戦死してしまうんじゃよ。
それを聞くと、桓階は危難を犯して劉表の下に出頭し、孫堅の遺体を請い受けるんじゃ。劉表は彼の義侠心を買って、遺体を彼に与えるんじゃ。
彼もまた義に厚い人物であるな。王脩殿や田豫殿等に通じる部分があった、ということだな。
孫堅の後釜の張羨
その後、袁紹と曹操が官渡にて戦うようになると、荊州の牧劉表は袁紹に呼応するんじゃよ。孫堅の後任で長沙の太守になっておった張羨に桓階は進言するんじゃ。
「そもそも行動を起こしても道義に基づかない場合、失敗しない者は有りません。それ故春秋時代、斉の桓公は諸侯を統率し、周を尊重し、晋の文公は王子叔帯を放逐して周王を都に入れました。
今、袁氏はそれと反対の態度を取っているのに、劉牧がそれに呼応されますのは災難を招くやり方です。
明府(との)には必ず功業を打ち立て道義を明らかにし、福禄を全うし、災禍を遠ざけたいと願われますならば、彼等と同調してはいけません。」
張羨はこの意見にどうすれば良いのか具体的な策を求めるんじゃ。
そこで桓階は次のように答えるんじゃ。
「曹公は弱いとは言え、道義に従って立ち上がり、朝廷の危難を救い、王命をかしこみ罪ある者を討伐しておりまして、誰が敢えて服従しないでおれましょうか。今もし4つの郡をこぞり、三つの河を保持してその到来を待ち、彼のために内応するならば、よろしいではございませんか。」
張羨はこの意見に納得し、長沙及び隣の三郡をこぞって劉表に抵抗し、使者を曹操の下に送るんじゃ。
賈詡殿同様、この時点で既に曹丞相の器量を見抜き、順逆を顕わにした桓階殿も見事な慧眼の持ち主と言えよう。
劉表との関係
さて、張羨から使者が送られたことで曹操はたいそう喜んだんじゃが、曹操自身は袁紹との戦いにいっぱいいっぱいであり、とても南方方面に兵を差し向ける余裕はなかったんじゃよ。
そうしている内に、劉表が張羨達の方に矛先を向けるようになったんじゃ。折悪しく張羨が病死してしまい、まとまりを欠いた長沙の城は陥落してしまうんじゃ。
桓階はこれにより身を隠しておったんじゃが、彼の能力を高く評価しておった劉表によって召し出され、従事祭酒に任じられるんじゃよ。
更に妻の妹の蔡氏をめあわせたいとまで思ったようなんじゃ。
なんだかんだで劉表も桓階殿のことをかなり高く評価しておったのだな。
じゃが桓階は既に結婚していると説明し、拒否して受け付けず、それを機会に病気を理由に退官し、隠棲してしまったんじゃ。
劉表に比べると桓階はあまり劉表の方を評価はしておらんかったようじゃな。彼が非常に高く評価しておったのは孫堅であり、曹操であった、と言うのは興味深い話じゃな。
さて、キリの良いところでいったん終了じゃな。次は曹魏時代のエピソードと能力評価と行こうかのう。良ければ次もまたご覧くだされい。
↓ バナーをクリックしてくれるとうれしいぞい