さて、今回は高柔の孫に当たる高渾の紹介じゃな。ちなみに高柔の孫と言うのは分かっているんじゃが、父が誰なのかは史書からははっきりしない人物なんじゃよ。
さて、今回は高渾の紹介じゃな。高柔の孫であり、高柔が亡くなった時に後を継いだのが高渾なんじゃよ。
先日紹介した高光とか高誕とかは後を継いでいないんですか?
どうも張郃だ。ふむ、これは呉志『諸葛瑾伝』を見れば分かり易いのだが、諸葛瑾が亡くなった時、長男の諸葛恪はすでに侯に封ぜられていたことから、弟の諸葛融が後を継いだ、とある。
ああ、なるほど、既に親元から独立しているから後を継がない、と言うケースがあるのですね。
そう言うことだな。恐らく高光等は既に確たる地位があったため、そう言うのがなかった高渾におはちが回ってきたのであろう。
そうじゃな。そう考えると高渾はまだ成人したばかりとかであったのかもしれんのう。それでは高渾について見ていくとしよう。
能力評価
さて、それでは各項目ごとに評価理由を見ていくとしようかのう。
軍事・統率・知謀・政治
さて、高渾に関しては上で高柔が亡くなった後、彼の跡を継ぎ、更に咸煕年間(264 - 265年)に五等級の爵位制度が打ち立てられると、高柔が先帝の時代に勲功を表したことから、改めて高渾を陸昌子に取り立てた、とあるんじゃ。
陸昌子と言うのは爵位の一つ、(開国)子のことだな。魏の時代からまた少し爵位制度が変わっているから注意が必要だな。
魏の時代ですと功臣の息子は関内侯になることが多いですが、高渾は少し高い爵位を受けた訳ですね。
↓ バナーをクリックしてくれるとうれしいぞい
簡単解説
爵位は結構高いのですが、実績は見えてこなかったですね。
だから評価としては政治も含めて100を超えることがなかったのであろうな。
それにしても魏と晋で微妙に制度が違っているのは紛らわしいですね。
ある程度は踏襲しているから参考になる部分もあるのだがな、勘違いすることも多いのさ。
自分も漢から魏、魏から晋へと移行していく中で勘違いしていたこととか結構多かったからのう。将軍号とかその最たるものなんじゃよ。さて、それでは今日は終わるとしようかのう。
よし、それでは俺も帰るとするか。次もまたよろしく頼む。
張郃さん、お疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。