さて、今回は曹徽の紹介じゃな。曹操の息子であり、叔父の曹玉の後を継いだ人物、とのことじゃな。考えてみれば曹操の兄弟と言うのは今まであまり表舞台に出てきておらんのう。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は曹徽の紹介じゃな。曹操の息子の一人じゃな。
どうも、張郃だ。曹徽は曹玉の跡を継いでいる、とある。恐らく曹玉は若くして亡くなったのであろう。
後継ぎがいなかった訳ですから、成人前に亡くなっていたのかもしれませんね。あ、そう言えば曹安民って曹操の甥がいたじゃないですか。彼の父ではないんですよね。
確か曹玉とは別だったはずだ。曹安民の父は海陽哀侯と追尊されているが、曹玉は朗陵哀侯と、別の尊称だからな。
この時代、名跡を絶えさせることはタブー視されていたからのう。曹操としても何とか弟の家を残してやりたかったんじゃろう。
能力評価
さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。
軍事・統率・知謀・政治
魏志『東平霊王徽伝』じゃが、叔父の朗陵哀侯曹玉の跡を継ぎ、217年に歴城侯に取り立てられるんじゃよ。221年には公に爵位が昇進し、222年には盧江王となり、223年寿張王に、その後225年に東平に国替えされた、とあるんじゃ。
ここまでは他の皇族と同じ道をたどっているんじゃが、234年、曹徽は属官に県の役人を鞭打たせたとして、所轄の役人に上奏され、一県五百戸を削られた、とあるんじゃよ。すぐに戻されたようじゃが、ちと軽率な行動だったかもしれんのう。
なるほど、少し政治が低いのはこのやらかしがあったから、と言うことなのですね。
まあ曹徽にも言い分があったように思うが、封邑が削られていたことから、曹徽の方に何らかの非があった、と言うことであろうな。
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簡単解説
そう言えば能力で知謀は少し他より高いですよね。何か理由があるのでしょうか。
曹嘉の所で才人として名が挙がっていた曹翕のことを覚えているか。
つい先日のことですからもちろん覚えています。彼と関係があると言うことですか。
そうだ。曹翕は今回紹介した曹徽の息子で、彼の跡を継いだ人物だからな。
そう言うことじゃな。息子の才を考慮して、少し知謀を高めとしておいたんじゃ。さすがにやらかしがあったから、政治は高くできんかったがのう。さて、今日はここまでじゃな。次も良ければご覧くだされ。
よし、それでは俺も帰るとするか。
張郃さん、今日はお疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。