さて、今回は曹彰の紹介じゃな。曹操の息子にして恐らく一番の猛将ではなかろうか。彼が若くして亡くなったのは魏にとって大きな損失じゃったと思うんじゃよ。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は曹彰の紹介じゃな。上でも書いている通り結構とんでもない逸話の持ち主じゃよ。
勇猛な将だったと言うのは演義でも描かれていますね。他にも何か逸話があるのでしょうか?
曹彰殿の勇猛さは有名で、膂力に優れ猛獣とも格闘したことがある、との話だ。三国志に数多の猛将あれど、素手で猛獣と格闘した、などと言った逸話が描かれる人物はほぼいないであろう。しかも騎馬と弓も良く扱う、将としては理想的な人物だな。
なるほど、演義だと普通に猛獣素手で倒せそうな人たちが並んでいますが、普通に考えて・・・いえ、普通じゃない話ですよね。
そうじゃな、そんな曹彰の猛将エピソード、見ていくとしようかのう。
能力評価
さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。
軍事・統率
曹彰の軍事面の記録を魏志『任城威王彰伝』及び裴松之の注から見ていくとしようかのう。
任城の威王曹彰は、若い頃から弓射と馭車が上手で、筋力は人並み以上、自ら猛獣と格闘し、険阻なところも平気であった。
正史本伝に書かれているのはすごいですね。それで軍事は高いのですね。
~中略~
太祖(曹操)はある時子供たちに好きなことを尋ね、各自その希望を述べさせた。
曹彰「将となることが望みです。」
太祖「将となってどうするのじゃ。」
曹彰「鎧を着、武器を手に、危険を前にしてひるまず、士卒の先頭をきります。恩賞は必ず行われ、刑罰は必ず信義に基づきます。」
太祖はこの話を聞いて大笑いした。
建安二十三年(218年)代郡の烏丸賊が反乱を起こした時、曹彰を北中郎将とし、驍騎将軍を代行させた。
~中略~
曹彰は北征し、涿郡の境界に入ると、反逆の蛮族数千騎が突然やってきた。
その時兵馬はまだ終結せず、ただ歩兵千人、騎馬数百騎がいるだけだった。田豫の計略を用い、固守して敵の隙を伺ったので、敵は退却し、ちりぢりとなった。
曹彰はそれを追いかけ、自身戦闘に加わり、蛮騎を射たが、弦の響きに応じて倒れる者が、前後して続いた。
これだけでも武将としての曹彰の凄さが伝わってくると言うものだな。呂布に次ぐ猛将としても相応しいのではなかろうか。
知謀・政治
さて、こちらに関しては目立ったエピソードはないんじゃよ。
太祖はある時彼の気性を抑えるために言った。
太祖「お前は書物を読んで聖人の道を慕うことを考えないで、汗した馬に乗り剣術をするのを好んでいるが、それは匹夫の働きであって、どうして尊重する程の事があろう。」
じゃが曹彰はこれに反発し、側近に向かって言うんじゃよ。
曹彰「男子はひたすら、衛青・霍去病となって十万の騎兵を引き連れ、砂漠を馳せ廻り、蛮族を追い立て、功績をあげ称号を打ち立てるべきじゃ。どうして博士になんかなれよう。」
曹彰の考え方は、この最後の一文に集約されているのですね。
そうだな、こんな人物だったから曹丞相も彼のことは後継者候補とは見做していなかった。とは言え武将として曹彰殿を非常に評価していたようだがな。
とは言え、知謀・政治はだいぶ抑えめと言うことですね。猛将らしいと言えばらしい評価に思います。
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簡単解説
多少能力の上下はありますが、他の作品でも全て勇猛な将と言う評価に変わりはなさそうですね。
まあ、曹彰殿に関してはまだ逸話をすべて書いているわけではないからな。当然その辺りも補足するのであろう?
そう言うことじゃな。曹彰の猛将伝説はまだまだ続く、と言うことでもう一回だけ曹彰の紹介を行うぞい。
よし、それでは今日のところは帰るとするか。
張郃さんお疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。