三国志に釣られクマー

三国志に釣られクマー

三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

曹植(そうしょく) 字:子建(192~232)その1

さて、今回は曹植の紹介じゃな。曹操の息子じゃが、父をも超える偉大な「詩聖」なんじゃ。その名声は李白杜甫が出現するまで、数百年に渡って頂点に君臨していたほどのモノなんじゃよ。

 

案内人 

くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。

弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。

張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。 

四方山話 

さて、今回は曹植の紹介じゃな。兄の曹彰、そして曹丕と共に飛び抜けた逸材なんじゃよ。逆に言うと評価も非常に難しい人物なんじゃよ。

詩の天才と言うのは知っていますが、もう一つピンと来ないですね。

そうだな、例えば宋の400年頃に謝霊運と言う有名な詩人がいるが、彼は天下の詩の才能を一石とすると、その内の八斗(八割)は曹植が占めていると言っているほどだ。

確か三国時代って建安の七子や三曹、また晋の時代にも二陸(陸遜の子孫)とか結構有名な詩人が多くいましたよね。

そうじゃな、謝霊運も時代を代表する詩人であり、他に有名な詩人として陶淵明などもおるが、それでも李白らが出てくる700年代までおよそ500年間、曹植は詩文界の巨星であり続けたんじゃよ。曹操とは違った意味で時代を超えた偉人と言えるのではなかろうか。

能力評価 

爺評価(Max.200)
   軍事   統率   知謀   政治 
 曹植(20歳)  45 155 130 60
 ↓ ↓ ↓  ↓↓↓ ↓↓↓
 曹植(45歳)  73 194 167 90

 

さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。

統率

曹植に関しては非常に評価が難しいんじゃよ。詩において時代を超えた天才であり、巨星であるが、実利面(軍事・政治)において大きな実績を残した訳ではないんじゃ。

ただ何らかの形で彼のことは評価していきたいと思ったんじゃな。それが統率(魅力)なんじゃよ。それでは魏志『陳思王植伝』を見ていくとしようかのう。

鄴の銅爵台が新しく完成し、太祖は子供たち全部を連れて台に登り、それぞれ賦を作らせた。曹植は筆を執るとたちまち作り上げたが、立派なものだった。太祖はたいそう彼の優れた才能に感心した。

~中略~

進み出て目通りし、難しい質問をされた時、質問の声に応じて答えるのが常で、特別寵愛された。

~中略~

曹植は才能によって特別に評価された上に、丁儀・丁廙・楊脩らが彼らの羽翼となって助けた。

なるほど、高い詩才によって後継者候補に選ばれていることを魅力(統率)の高さとして表現した、と言うことですね。 

同時代だけでなく、後世に渡っても曹植殿の詩文は多くの人を魅了し続けた。それ故飛び抜けた統率を持たせた、と言うことだな。 

知謀

さて、知謀に関しても、もちろん曹植の才能は抜群のものを示しているんじゃよ。こちらも魏志『陳思王植伝』から見ていくとしようかのう。

曹植は年十歳余りで『詩経』『論語』および『楚辞』漢賦数十万を朗誦し、文章を綴るのが上手だった。太祖(曹操)はある時その文章を見て曹植に向かって言った。

太祖「お前は人に頼んだのか。」

曹植はひざまずいて言ったんじゃ。

曹植「言葉が口をついて出れば議論となり、筆をおろせば文章となります。どうか目の前で試してください。どうして人に頼みましょう。」

ちょっと横になるが、伝にはあちこちに『詩経』や『文選』に載っている文言を曹植が引用していたり、曹植自身が作成した詩賦が載っているんじゃよ。その数は20以上にものぼるんじゃな。

多分それだけの引用がされる人物ってほとんどいないですよね。

それだけでも曹植殿の天才性が分かると言うものだな。

軍事・政治

さて、こちらに関してはちょっと曹植に関してはあまり芳しい話は見られないんじゃよ。

曹植の性質はおおまかで細かいことにこだわらず、威儀を整えず、車馬服飾を尊ばなかった。

~中略~

曹植は生地のままに振るまい、自己を飾ったり努力したりせず、飲酒にも節度がなかった。

~中略~

曹植はある時、車に乗って天子の専用道路を通り、司馬門を開いて外に出た。(曹植の子の身勝手な行動に)太祖はたいそう腹を立て、公車令はそのかどで死刑に処せられた。このことから諸侯に対するおきてと禁令は重くなった。

そして曹植への寵愛も日に日に衰えた。

なるほど、曹操は昔法令を遵守しなかったものは容赦なく罰した、とありましたよね。法家として曹植の行いは認められなかった、これが政治が抑えられた理由なのですね。 

建安二十四年(219年)、曹仁関羽に包囲された。太祖は曹植を南中郎将とし、征虜将軍を兼務させ、曹仁を救援させようと思い、呼び出して訓戒することがあった。

曹植は酔っぱらっていて命令を受けることができなかった。そのため太祖は後悔してそれを取りやめた。

これにより軍事的功績を上げる機会も逃してしまった。奔放な性格が災いした形だな。 

兄の曹彰とはまた違った意味で極端な方なんですねえ。師匠が評価が難しいと言った意味が少しわかりました。 

 

三国志14(Max.100)
   統率   武力   知力   政治   魅力 
 曹植  20 22 81 70 80

 

天舞~三国志正史~(Max.16)
   武勇   采配   策謀   政治   外交   人徳 
 曹植  1 5 2 10 11 10

 

鄭問三國志(Max.30)
   武勇   統率   知謀   政治   健康 
 曹植  8 13 18 21 10

 

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簡単解説

何となく想像つきましたが、他の作品でも曹植の扱いには苦慮しているように感じますね。

知謀含めていずれもそこそこの評価になっている辺り、これぐらいかな、と言う逡巡が見て取れるな。

ワシも無理やり統率を最高値に持っていったが、違和感があると言われても、それはそうかもしれんのう、と思ってしまうんじゃな。曹植は彼の書いた詩賦が残っていることから、出せる者を出していってみたいのう。と言うことでもう少し曹植については掘り下げていこうと思うぞい

よし、それでは今日のところは帰るとするか。  

張郃さんお疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。