三国志に釣られクマー

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三国志好きの三国志好きによる三国志好きのための何か

董昭(とうしょう) 字:公仁(156~236)・その2

さて、今回は董昭の2回目じゃな。

出来れば2回で、と思ったが無理なようじゃな、今日は曹操が亡くなるまでのエピソードを紹介するぞい。

 ・董昭紹介その1(袁紹~曹操時代前半)

ほっほっほ、どうもくまの爺ですじゃ。さて、董昭2回目じゃな。

前回の内容を見る感じですと、人間心理を上手く突いた策略を得意とする感じでしょうか?

そうじゃな、それと優れた政治的判断からタイミングよく政策を進言することができる。ただのう・・・。

??ただ、どうされたのでしょうか?

うむ、彼のようなタイプの人間は一歩間違うと、主君におもねり、こびへつらうタイプの人間と見做される恐れもあるんじゃよ。

ああー君主の意に沿えば沿うほど、そう受け取られかねない、と言うことですね。

うむ、実際蘇則と言う人物が侍中になって董昭と同僚になったんじゃが、ある時董昭は蘇則の膝を枕にして横になったんじゃ。

すると蘇則は董昭の頭を押しやり「わしの膝はおべんちゃらやの枕ではないわい」と言い放ったんじゃよ。

うーん、何となく言わんとすることは分かる気がしますね。それにしても男同士で膝枕なんて・・・

(む、こやつまたいらんことを考えておるのう、やれやれ)

い、いえいえ、何も考えてませんよ、ほほほほほ

こらこら、人の頭の中を読むでない。まあよいわ、それではそろそろ曹操時代後半の紹介と行くかのう。

人物紹介

袁一族との戦い

袁術袁紹の下に向かおうとした時、それを劉備に命じて阻止させたんじゃ。董昭は曹操に、劉備を徐州に送ることの危険性を進言するんじゃ。後に劉備は徐州刺史の車冑を殺害し反乱したので、曹操自身が討伐に向かい劉備撃破後、董昭を徐州牧にするんじゃ。

その後顔良が魏郡に攻めてくると魏郡太守に転属し、曹操は彼を引き連れて顔良を破ったんじゃよ。

後に鄴を包囲した時に、城内におった袁春卿を説得しているんじゃ。この時曹操は袁春卿の父である袁元長を呼び寄せ、董昭は父に対する孝を大事にするよう書簡をやって教え諭しておるんじゃ。じゃが史書にはその後袁春卿がどうなったのか、何故降伏を勧めたのか、が書かれていないんじゃよ。この辺りはもやもやするのう。

後に袁尚が烏丸の蹋頓を頼ったので、それを討伐しようとしたんじゃが、兵站の心配をしたんじゃ。そこで董昭の献策により、泉州などに運河を掘り、海上輸送を通じさせ、兵站問題を解決させたんじゃよ。曹操は上奏して彼を千秋亭侯にとりたて、司空軍祭酒に任じるんじゃよ。

魏公、魏王の建議

その後、曹操は魏公、その後に魏王となるんじゃが、これは全て董昭が最初に言い出したことなんじゃな。そして曹操を魏公にと言う時に、その件を荀彧に相談するんじゃが、荀彧はそれは曹操がやろうとしていることの道から外れた行為だ、として反対するんじゃな。

荀彧は天下の群雄を全て従え、名実ともに天下を統一した上で、曹操に皇帝位に就いてもらう道を選び、董昭は魏公、魏王となり先に曹操の権威を高め、その過程で何時か曹操に皇帝になってもらう道を選択したと思うんじゃ。

荀彧は恐らく、先に魏公、魏王となる道を選ぶとそれに反発する諸侯が必ず出てきて、逆に天下統一の道が遠のく、と言う長期的展望から反対したのだと思うんじゃ。決して漢王朝の存続を望んでおった、とはワシは思っておらんのじゃよ。 

豆知識

魏公、魏王とは簡単に言うと漢王朝の中に魏国と言う、独立国を建てることが認められたようなもんなんじゃよ。魏公や魏王は魏国の殿様、と言う感じじゃな。

じゃが当時漢王朝では慣例として、王になれるのは劉氏に限られておったんじゃよ。

曹操は魏王となることで、その慣例を打ち破ることとなったんじゃな。公と王の意味は似てても重みが違う、と言うことじゃろうな。

後に劉備はこれに対抗して漢中王に、孫権も後に呉王となるんじゃ。

当然魏国には魏国の制度、組織が存在することとなるんじゃ。そのため魏の武将は漢の官職と魏の官職が入り混じることになるので、非常にややこしいんじゃよ。

劉備孫権後漢の将軍号しか持っていなかった頃は、配下は校尉とか騎都尉等、将軍より下位の官職しか持っておらんかったんじゃ。

こう言う弊害もあるから独立国を持ち、大きな組織を形作れるようになるのは、非常に大きな意味があるんじゃよ。

ちなみに魏になってから後、倭国は王の位を授けられるんじゃ。当時異民族で王の位を受けたのは倭国と大月氏国のみ、実は倭国の立ち位置は結構重要だったんじゃが・・・まあそれはまた別の時に話すとしようかのう。

関羽との戦い

関羽曹仁を樊城にて包囲したじ時じゃが、孫権関羽討伐に参戦してきたんじゃ。孫権は不意打ちで江陵と公安を奪取するため、この情報を絶対に漏らさないようにと言ってきたんじゃ。もし情報を漏らすと関羽が対応して、江陵と公安の守りを固めるかもしれんからのう。

皆がその意見に同意している時に、董昭が異を唱えるんじゃ。

「軍事には応変の策略が必要で、事態に合致させることが必要です。孫権の希望に応えて秘密にしつつ、密かにこのことを漏らすのが良いでしょう。

もし関羽が江陵の防御に回るなら、速やかに包囲は解けます。漏らさないのは孫権の思い通りに事が運ぶことになるので、最上の計略ではありません。

また、包囲の中にある味方にも、何も情報を流さないのは二心を抱かせる要因となり、もしもの時の被害は甚大となります。このことからも情報を漏らしておいた方が良いでしょう。

それに関羽は激しい気性の持ち主で、二城の守備の堅固さに自信を持っているから、必ず留まり、すぐには引くことはないでしょう。」

と進言するんじゃ。実際これにより関羽は疑心暗鬼となり、城内の士気は一気に上がったと言う。味方の心情や関羽の性格まで読み取った、見事な計略と言えるのではなかろうか。そうして関羽は敗北するんじゃよ。

魏にはこのクラスの人材がゴロゴロいるんじゃよ。そう考えると恐ろしい話じゃて。

さて、今回はここまでじゃな。次で文帝以降の事績を語ることとするぞい。恐らく次で終われるぞい。

次もまた見てくださいね、それではまた!

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