さて、今回は曹志の紹介じゃ。彼は詩文の才に飛びぬけて優れていた曹植の息子で、曹志自身も飛び抜けた才の持ち主だったようじゃな。彼についてどんなものか、見ていくとしようかのう。
案内人
くまの爺・・・三国志好きのタダの爺さん、もちろん某く〇モンとは何も関係ない(それ以上はいけない)。三国志好きが高じて史書に載っているほぼ全ての武将のDB化をしてやろうと大それたことをもくろむ。終わりの目途は・・・全く立っていない。
弟子・・・師匠の無茶な道楽に付き合わされる可哀そうな弟子。最近は張郃とのやり取りが多いせいか、無駄なツッコみは減っている模様。実は弟子と書いて「ていこ」と言う名前だったりする(師匠は最近思い出したようだ)。
張郃・・・くまの爺が一番好きな武将とお話ししたい、と謎の技術で召喚された可哀そうな人物。もっとも本人は現代生活を結構楽しんでいるよう。無理やり召喚されたためか、くまの爺の持ってる範囲の記憶しか残っておらず、ちょっと残念。
四方山話
さて、今回は曹志の紹介じゃな。彼は非常に才能が高く、恐らく曹操の孫世代の中でも抜けた存在だったようじゃな。
曹植は私も知っていますが、さすがに曹志は知らないですね。
曹志殿は曹植殿の末子であったが、家を保全する君主の人柄であったため、彼を後継者にしたいと曹植殿は思ったようだな。
そして実際彼が後を継いだ・・・儒教の観点で長子を重んじる当時の世相からすると奇異に映ったじゃろうな。曹植もやはり異端の人物、と言うことじゃろうか。
能力評価
さて、それでは各項目について見ていくとしようかのう。
軍事・統率
曹志について魏志『陳思王植伝』を見ても軍事面の記述はほとんどないんじゃが、晋書の方を見ると、彼は騎射に非常に巧みであったらしいんじゃよ。
なるほど、漢の皇族劉寵なんかも弩の射術に優れていたことから、軍事が高かったですね。
その一方で、軍を自ら率いたような記録は残っていないんじゃな。
さすがに何も実績がない以上、統率は少し抑えめと言う形に収まったのだな。
知謀・政治
文知面に関しては、魏志『陳思王植伝』の裴松之注『曹志別伝』を見ると、次のようにあるんじゃよ。
曹志は学問好きで、才能を持ち品行が良かった。
晋の武帝(司馬炎)は中撫軍に取り立て、常道郷公を迎えに鄴へ派遣したが、曹志はその前夜、武帝に目通りした。
武帝は彼と夕暮れから夜明けまで語り合い、たいそう高く評価したんじゃよ。
この辺りから、知謀の高さへと評価されていくわけだな。
さらに続きがあるんじゃが、次の通りじゃな。
鄄城公に取り立てた後、詔勅を発布し、曹志を楽平の太守に任じた。章武・趙郡の太守を歴任して散騎常侍・国学博士に昇任し、後博士祭酒に転じた。
斉王(司馬攸)が藩国に行くにあたって、武帝は儀礼を扱う官吏(太常)に命じて斉王に対する特別待遇の法規を研究させたんじゃよ。これに対して曹志は嘆息して言ったんじゃ。
「一体これほどの才能を持ち、これほど親族でありながら、根本を打ち立て教化を助けることを許されずに、遠く海浜(斉)に出されて良いものか。」
これにより建言して諫めたが、その内容は甚だ厳しかった。
これは父、曹植の立場を司馬攸の立場に重ねて考えていた、と言うことでしょうか?
恐らくはそうであろう。だからこそ同じ轍を踏んではいけない、と武帝(司馬炎)を諫めたんじゃろうが、武帝は逆に腹を立ててしまったようだな。
なるほど、才知がありながらあまりにも正直に諫めて武帝の怒りを買ったことから、政治は少し抑えめなのですね。
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簡単解説
やはり他の作品には出てこないのですね。
それはもう演義に出ていない以上、仕方あるまい。それにしても、曹植も長子でなく、曹志も長子でない。この二人が続けてもし魏国を継いだとしたら、中華史における新たな時代を築いたかもしれないな。
そうじゃな、それこそ儒教からの脱却を実現させた世界になっていたかもしれんのう。
さて、曹志に関してはここまでじゃな。良ければ次もよろしく頼むぞい。
ふむ、それでは俺も帰るとするか。
張郃さん、今日はお疲れさまでした。次もまたよろしくお願いしますね。